#75 学生の本分
マリシャはドラゴンから降りて、半ば土下座に近い姿勢である。事態は切迫しているようだった。
「レンズの魔法を使うというのはどうだい、という話を鳥にくくって送ったところなんだけど」
「レンズの魔法か……たしかにそれならうまくいくかもしれないが、もう悪鬼像は地下迷宮の入り口近くまで来ている」
「じゃあ今すぐ帰って神殿騎士のみんなでレンズの魔法じゃないのかい」
「それもそうだが、武勇で知られるクライヴが来てくれるだけで士気が上がる。長老会になにかしろと言われるよりはクライヴに励まされたほうが神殿騎士のやる気が出る」
「そんな、やる気が出る、みたいな理由で村を簡単に離れるわけにいかない。礼拝も執り行わなければならないし、この村にくるエンゲーブの話も聞かなきゃいけない」
「長老会に呼び出されれば来るのに、神殿騎士の士気を上げるためには来てくれないのか?」
マリシャの言うことは、どこか無体なことを言うお殿様のようだった。クライヴはひとつため息をついて、
「神殿騎士の士気が高まらないのは不信仰の証しだ。民を守り神殿を守るものとしての覚悟に欠ける」
と、冷静に返事をした。
「よほどこの田舎の村が好きなのだな」
「そりゃあ、都にいちゃ分からないかもしれないけれど、この村が野菜なんかを育てたり牛や豚の世話をしているから都の人たちは食事ができる、ということを忘れちゃいけない。帰ってくれ。ああそうだ土産がある」
クライヴは納屋からオーク肉のソーセージを出してきた。
「エンゲーブが教えてくれた料理だ。オーク肉は塩漬けのオークのはらわたに刻んだ肉をつめて燻製して食べるとうまい」
「え……オークのはらわたって食べられるのか?」
「まあ持ち帰って焼くなり茹でるなりして神殿騎士のみんなで食べてみてくれ」
「……お前から聞いたこと、すべて伝えておく」
「よろしく」
マリシャはドラゴンに乗ると、
「全ての改革はこの村から始まっている。頑張れよ、エンゲーブ」
と言って、空高くに去っていった。
しかしもうそんなところまで動いているのか、悪鬼像。なんだか嫌な感じだ。
「大丈夫。女神さまのご威光に照らされれば、悪鬼だって諦めるさ」
「そうならいいんですけど……」
沙野がはああーと息をついた。
「魔物っていうのはだいたい辺境から攻めてくるものだ。この村で少々魔物の出没が増えた程度、ということは、さして問題ないということだよ。10年前のツジくんのころも、5年前……6年? 7年? 前のころも、結局人間が、というか女神さまのご威光が勝利した」
あんまり心配しなくていいのだろうか。
「でも行かなくてよかったんですか? クライヴ師と言えば武勇伝をたくさんお持ちの腕利きじゃないですか」と、レイナレフ。
「昔の話さ。血まみれになりながらドラゴンだ悪魔だと戦うより、守護神官をやっているほうがずっといい」
クライヴはハハハと笑った。
この世界の人たちは強いな、と有菜は思った。外から夜呼びの声がしたので、いったん帰ることにした。
帰ってくると、太嘉安先生がインスタントコーヒーを沸かして飲んでいた。
一同、あちらであったことを話す。
「そんなにあちらは切迫しているのか……あちらに入れ込みたくなる気持ちも分かる。でも学生の本分を忘れないように。沙野さんと有菜さんは受験生だしね」
「あ……そうでした。頑張らないと」
「この学校から海外の大学を目指したのは沙野さんが初めてだよ。有菜さんの志望校候補だってどこもけっこうレベルが高い。どうか上手くいくといいね」
「ハイ!」
一同解散することになった。有菜は、なんだかぐるぐると考えていた。
あちらはいままでもなんとかなってきた。だから無駄な心配はせずに過ごしたい。なにしろ受験生である、夏休みには珍しく親に提案されて、予備校の合宿に行くことにもなっている。
それを歩きながら翔太に打ち明けた。翔太は、
「大丈夫っすよ。なんかモンスター出たらとりあえず斬るんで」
と、ぜんぜん大丈夫じゃないことを言われた。
「翔太くんは将来のことって決まってるの?」
「うーん。就職するつもりっす。バイパスの近くの医療機器工場が妥当かなあって。給料いいらしいし」
「あそこめちゃめちゃしんどいらしいよ? 先輩で勤めて続いた人知らないもん」
「そうなんすか? ……うーん。土方さんの勤めてる鉄工所とかのほうがいいのかな」
そんな話をして、分かれ道のところで翔太とバラバラになった。
悩みばっかりだ。
しかも普通の高校生は抱えていない「異世界」の悩みまで抱えている。
その異世界も、今年の冬ごろには行けなくなっているのだ。だったら異世界のことで悩むのは少し馬鹿馬鹿しいことかもしれない。
それでも有菜はルーイやソノ、クライヴやレイナレフやマリシャのことが心配だ。あの人たちが幸せに暮らしていればこっちも心穏やかでいられる。
あの学校から離任しない限り異世界へ行くことのできる、太嘉安先生に託すしかないのだろうか。後輩たちやこれからできるはずの後輩の後輩たちに託すべきだろうか。
なんとかして、自分の手で、あの世界を救いたい。受験生が考えることではない、しかしやらねばならない、いややりたい。
有菜は拳をぎゅっと握った。
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