#19 クオンキと同じ味のトマト

 有菜と沙野が月下美人を見てきたと嘘をついた次の日、有菜は教室で英文法の授業を受けながら船を漕いでいた。寝不足だ。

 ふだん有菜は11時には布団に入っている。それが11時に帰宅して夕飯を食べてシャワーを浴びて寝て、いつも通り起きたので、そりゃまあ寝不足だろう。

 ああ、英文法の授業から意識が遠のく。眠い。お布団に帰りたい。

 英文法の先生はやたら声が小さくて全体的に小汚いおじさんだ。生徒をあまり見ずに勝手に進めていくタイプ。おそらく高校の得意科目が英文法だったんだろう、教えるのは端的に言ってヘタクソだ。

 有菜がガクリと頭を机にぶつけそうになったところで、英文法の授業が終わり、その日一日の授業がぜんぶ終わった。


 ここに書かなかっただけで、園芸部はなかなか頑張って部活の農作業もしていた。

 有菜がトマトを収穫するかたわらで、沙野がルッコラを摘んでいる。サツマイモはまだ先だ。

「いやあたくさんトマトが生ったね」

 太嘉安先生が誉めてくれた。有菜は素直に嬉しかった。

「どうやって食べます? 丸齧りは無理です」

「有菜ちゃん、なんでトマト苦手なのにトマト作ろうって言ったの?」

「いやあ……嫌いな野菜なくしたくて……ケチャップはイケるからなんとかなるかなって」

「そういえば有菜ちゃん、石井さんのトマトジュース、すごくおいしそうに飲んでたよね」

「うん、単にプチトマトのプチってなるのが苦手なだけで……あとくし切りのトマトが口の中でぐちょっとなるのが苦手」

「石井くんはトマトジュースを作っているのかい?」

「はい、トマト農家やってます。あっちの世界でクオンキを食べたのがきっかけらしいです。石井さんってもともと農家の人じゃないんですか?」

「石井くんのお父さんは警察官だよ。駐在所に住んでた。いまはお父さんはずいぶん遠くの駐在所に転勤になって、お母さんと妹さんがついて行って……石井くんはこの街に残ってるんだね」

 警察官。有菜が小学生のころ同級生にそれこそ警察官の子供がいたが、ずいぶん習い事をしたりして裕福そうだった。石井さんに関しては、子供でないのだから自立してやりたいことをやるのは分かるが、もうちょっと堅実な職に就くべきだったのでは、と思ってしまう。

 しかしよくよく考えると、トマトを作ってトマトジュースで稼ぐというのは、ある意味すごくチャレンジングでありながら堅実なのではなかろうか。

 農業は自然相手の仕事である。当然楽じゃないし、忙しいし、現代日本ではそれで大々的に儲けようと考える人はいないだろう。

 でも、そこに挑戦するという心意気は、悪いものじゃない。おもしれー男、と、少女漫画のイケメンがヒロインに対して思うようなことを有菜は考えてふふふと笑った。


「ちわーっす」

 噂をすれば影、である。石井さんが現れた。手にはトマトジュースのケースが抱えられている。たぶん結構な重さだろう。

「おや、石井くん。さっき聞いたけどトマト農家やってるんだって?」

「うぃっす。最初は親と県南に行ったンスけど、どうしてもトマト……正確にはクオンキが忘れられなくて。クオンキと同じ味のトマトが育てられないか挑戦してるんすよ」

 クオンキと同じ味のトマト。なかなか壮大な夢である。

「これ差し入れなんで飲んでください」

 石井さんは箱をどんと置いた。中にはトマトジュースの瓶が並んでいる。ラベルはいつ見てもオシャレだ。

「ラベルは石井くんが描いたのかい?」

「ウス」

「高校生のころ選択授業で美術を取ったのが活きたわけだね。どれどれ」

 太嘉安先生はトマトジュースをぐびぐびと飲んだ。

「うん、大変おいしい。これは確かにクオンキに近い」

 クオンキというのはほぼトマトと言っていい野菜だが、この世界のトマトとは決定的に違う。この世界のトマトが甘みを重視するのに対して、クオンキは苦味や酸味といった、こちらでは排除されがちな要素がしっかりしていて、それでいて味の調和がとれた、味わい深い野菜なのだ。


 あちらの世界の野菜は、甘くないし食べにくいけれど、野菜が本来持っている深い味わいがしっかりしている。

 それが、石井さんをクオンキ味トマトの探求に向かわせたのだろう。

「お? 園芸部でもトマト作ってるのか? 味見していい?」

「あ、どうぞ」

 石井さんは白い歯を見せてガブリとトマトにかじりついた。しばらくモグモグして、

「そつなくうまい。こっちの世界なら直売所に並べて大丈夫なレベル」と答えた。

「スーパーは無理ですかね」と、有菜が訊ねる。

「うん、スーパーに並べるには素人ぽいかな」

「しかし石井くん、クオンキ味を目指したら売れないんじゃないかい? スーパーには並べてもらえないだろう」

「それがですね、ネットショップ開いて売ったら結構売れるんですよ」

 と、石井先輩がスマホを見せた。太嘉安先生は老眼鏡をかけて覗き込む。

『原始のトマト トマト本来の苦味や酸味を楽しめる、太陽の味のするトマトです トマトジュースもどうぞ』

 けっこう凝ったサイトのデザインだ。これも石井さんが一人で作ったらしい。

「石井さんってすごいんですね」と、沙野。

「俺がすごいんじゃなくて俺が作ったトマトがすごいんだ」

 石井さんは胸を張った。確かにこれは胸を張れることだと有菜は思った。

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