メイド長とお風呂とその先と
獅童邸には住み込みで働く従業員用の大浴場がある。
基本的に男女で交代制になっているが、使用人の男女比は4:12のため、殆どの時間は女性専用と化している。
男性従業員は料理専門であるため、夕食の調理を終えた後一時間以内が暗黙の了解。その後の時間は女性しか入ることを許されていないのだ。
そして更にその中でも役職に基づいて順番が決められている。順番が後者であればあるほど役職が上の人物が入浴を許されるというわけである。
つまり、最後に順番分けされたメイド長は本来気兼ねなく入浴を済ませることができるのだが――――――
「してしまった……」
大浴場に静かにこだまする声。
大理石で覆われた浴槽の中でひとり、私は俯いていた。
もう何度目だろうか、後悔と羞恥が波のように押し寄せ、いじらしくも私を悶々とさせる。
適正なお湯加減。寒さで固まる節々がほとよく解れていく。なのにこの気持ちはいつまで経っても強張ったまま。
溶けることなく、でも何時までも冷めないまま。言葉では表現できない感覚だった。
でも理由はきちんと分かっている。決して浴槽に浸かっているからではない。
「キス、してしまった……」
自制できなかった自分が恥ずかしい。
こういったものには手順があるのだと講釈を垂れていた私がいきなりキスをしたなど、明らかに矛盾していた。
なぜ私はあんなことをしてしまったのか、そんな後悔と羞恥がせめぎ合っていた。
「…………」
口元に指先をあてると、鮮明に思い出すあの瞬間。
いつまでも残る感触に酔いしれているようで、まるで自分が自分じゃないみたいだった。
「キス……したんだ……しちゃったんだ……」
頭がポワポワして落ち着かない。
どうして私はキスをしたのだろうか、そもそもどうしてキスをしてはいけないのか。だんだんと分からなくなってくる。
幻想的なひと時、そして私の初めて。
生涯を集約させても足りないほどに脳内に焼き付いてしまった。
そろそろマズイと分かっている。
司と関係を発展させれば自ずと障害となる問題が押し寄せてくると理解しているのに、それでも先の関係を望んでしまっている。
誰にもバレてはいけないのに、司に抑えるようお願いしたのに、なのに肝心な私が暴走しかけている。
「なんだかもう面倒になってきた……」
もう良いのではないか。
面倒事は全部捨てて、ただ本心に従えば楽しいに決まっている。
そうだ、楽しい日々が待っているのだ。
いつまでも甘くて煌びやかで心から笑顔になれる未来。
彼の隣に添い続け、呆れるほどに彼を味わってしまいたい。
そんな、当たり前の日々を――――――
「…………駄目だよ。そんな夢物語、あるわけないのに」
でも現実はそんな甘くない。
令嬢でもない平民風情が釣り合うわけがないほどに獅童家の肩書きは重い。
使用人を迎え入れたともなれば、忽ち評判が悪くなるのは目に見えている。
その全ての非難や重圧を背負うのは私ではない、次期獅童家当主の司なのだ。
司に背負わせてしまう罪悪感で、きっと私は自分を嫌いになる。
もうあの時みたいに現実を突きつけられたくない。ならば自ら諦めた方がより傷つかなくて済む。
司が望む対等、でも私にはその覚悟がない。
この先もずっと司の隣にいる姿を想像できない。
私には資格がないと、そう思ってしまう。
「…………もう出よう」
静かに音を立てないよう浴槽から出る。
逆波立てず、積み上げたものを溢さないように少しずつ、そっと抱きしめて。
今はまだだとしても、いつかはやってくる選択の時。
限りある時間を大事に想い、これからのことを考えながら今を送れば良い。
その時までに答えを出せれば、それで良い。
高校卒業し、司が当主を継ぐその時まで、私は答えを探し続けよう――――――
◇
「…………澄花さん、なんで司様とキスしてたの?」
でも遅かった。
あの頃と同じ。私は選択を間違えてしまった。
未来を夢見て、現実を思い知って、また繰り返してしまった。
どうしてあの時もっと警戒しなかったのか、どうしてあの時、気が緩んでしまったのか。
今更押し寄せる後悔は私をあざ笑うようにやってきた。
でも、過ぎてしまった時はもう戻らない。
私の運命は初めから決まっていたのだから――――――
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