御曹司は夢見心地
ここ最近、俺はすこぶる調子がいい。
澄花が起こしに来る前に目が覚めるようになったし、普段こなしている職務にも身が入っている。
普段通り過ごしているだけなのにどこか浮足立つような、でも地に足はしっかりついている感覚。
昂る気持ちがそのまま全身に伝わっているようで、こういった状態を俗に絶好調というのだろう。
「あーすっげぇ良い目覚めだ!」
カーテンを開けばどんよりした雲が広がっている。が、今の俺には関係ない。
胸の中に一輪の花が芽吹き、いつまでも心に安らぎを与える香りに惑い、心の奥底は地平線まで澄み渡る晴れ模様だから。
もちろん、何故こんなにもテンションが高いのかには理由がある。
それが何かというと……
「俺、めっちゃ澄花に愛されてる―――!」
思わず心の叫びを口にしてしまった。
でも仕方ないだろう。あんなキス、忘れろという方が無理な話だ。
口元にいつまでも残り続ける香り、そして澄みきった爽やかな高揚感。
あの味を知ってしまったら、もう一度知りたいと思ってしまう。まるで麻薬のような言い方だが、それ以外に正しい表現が思いつかない。
好きな人から向けられる好意が素敵なことだとは理解していた。
でも今までとは違う、明確に行動で示してきた澄花の愛情表現。
こんなにも嬉しくなるものなのかと自分で自分を疑ってしまうほどに高揚していた。
「やばい……朝から走り回りたい気分だ……!」
溢れ出す活力に身を任せてしまいそうになる。
これほどにまでハイテンションなのは初めての経験だった。
知らず知らずのうちにヤバい粉でも吸ってしまったのかとさえ推量してしまう。
けど悪くない、むしろ最高だ。
あの澄花にキスされたのだ。それを最高と言わずして何と言いましょう。
「……いや待て、ちょっと落ち着け。今の俺、滅茶苦茶キモいぞ」
一旦冷静に、息を吸ってゆっくり整える。
いくら昂っているとはいえ、この状況を見られたら確実に澄花に軽蔑される。
まだ余韻に浸っていたいがここは我慢。
まだ澄花が来ていないうちに、いつもの冷静な俺に戻らなければ――――――
「珍しいですね、司様が既に起床なさっているだなんて」
「――――――!?」
しかし突然、後ろから声が。驚愕して腰を抜かしてしまう。
「な、なな……なんでいるの……!? ノックくらいしてよ!?」
「ノックならしましたよ。ですが司様がひとりでぶつぶつと独り言に勤しんでいらっしゃるご様子だったもので」
キョトンとした口振りで返答すると、澄花は不敵な笑い声を溢した。
「ですがそれほどにまで驚かれるとは思わず……相変わらず臆病者ですね、司様は」
「う、うるさいな」
先程の一連を見下すような言い方で揶揄われてしまう。
というか、このやり取りに既視感があるような……
いやでも、その前に確認しなければならないことがある。
「…………澄花、いつからいたの?」
「そうですね、良い目覚めと仰っていたと記憶しています」
「初めからってことじゃん、それ……」
嘘だろ? 一部始終どころか全て見られていたのか?
と言うことはまさか、俺の思考まで全て読まれている……?
普通なら有り得ないが、澄花の観察眼は卓越しているのだと経験が物語っていた。
いや、でも大丈夫、多分大丈夫だ。流石の澄花でも俺の思考全てを把握することはできない。
というか言葉にされたら黒歴史確定なことばかりの内容だ。絶対に伝わってほしくない。
大丈夫だ。俺の強運を信じろ――――――
「花の香りと澄み渡る晴れ空ですか……なんとも詩的な感性をお持ちで」
「全部バレてる……!?」
「そして私の名前を上手く使って表現した、と……」
うわぁあああああ!? バレたどころか考察までされてるぅううううう!?
これされるの……滅茶苦茶恥ずかしいぞ!?
「いいいやいやち違うんだ……! ここれには深いわ訳が……!」
思わず嚙み過ぎてしまう。自分でも何を言っているか分からないほどに酷い有様だった。
絶対軽蔑された。好感度が良い具合だったのに、ここで急降下は避けたかったのに。
ああ、やってしまった。もう完全に血の気が引いた。
せっかく昔みたいな関係に戻れたと思っていたのに、ここで逆戻りかよ……!
「しかし何と言えば良いか、まさか司様がポエム好きな一面をお持ちだったとは……」
「あああの、あ、あのその……!」
ため息をついて蔑むような視線を送ってくる澄花。
少しずつのしかかる重圧な空気に次第に耐えられなくなる。
酸素を貪るが頭に届かない。焦りが加速していく。
ただただ沈黙が怖い。今だけはどうしても澄花の感情が読み取れない。
その場で項垂れ、ただ次の言葉を待つことしか俺にはできなかった。
「――――――ぷっ、ふふ」
「……え?」
でも、その静寂はひとつの笑い声でかき消されてしまう。
「ふふふっ、本当に司様らしい……その能天気さには呆れてしまいますよ」
予想に反して柔らかい口調の澄香に、俺は目をぱちくりさせていた。
てっきり蔑まれるとばかり思っていたのに。
「キ、キモくなかったの?」
「キモかったですよ。当たり前じゃないですか」
と思いきや鋭い刃が刺さってきた。あまりにも直球過ぎる。
そうか、やっぱりキモかったのか。
分かってはいたけど、できれば少しは擁護してほしかったな。
「ちょっと、そんなに落ち込まないでください。まだ話は終わってないんですから」
肩を落とすと、澄花は俺の背中をさすって落ち着かせようとしてくれた。
「でもキモいんだろ? だったら別に良いよ、このまま嫌われたままで……」
「全く……せっかちな人ですね。私が意味もなく笑ったとお思いですか? まあ、もし本当にそう思っているのでしたら私は軽蔑しますが」
首を横に振る。やはり好きな人を信じないのは道理に反してしまう。
「即答……司様には矜持というものがないのですか?」
呆れた口調で物申されてしまった。
でも仕方ないだろう。
好きな人に好かれていたいと思うなら、それ以外は捨てても良いとさえ自負しているのだから。
随分と後ろめたい言い分だと自覚しているが、俺にあるのはそんな類いの矜持しかない。
澄花が隣にいてくれるなら他には何も要らないと思えるほどに、俺は想い続けてきたから。
「まあ、そんな愚直さも魅力のひとつなのかもしれませんね。こんな体たらくでも良いところが他にも数多くありますから、取り敢えず司様は最低限の自信くらいは身に着けておいてください」
「澄花……!」
もう何度目だろうか、彼女の言葉にドキッとするのは。
優しい言葉をくれる彼女に思わず恋してしまいそうになる。
でも待ってほしい。俺には既に想いを捧げたい人がいるのだ。
「しかし、なんとも単純というか本能のままというべきか……獅童家の名に恥じる姿ですよ? ああ、このままでは先が思いやられますね」
その人物は俺の目の前でため息交じりに愚痴を吐く。
心底呆れているのか、それともただ揶揄っているだけなのかは分からない。
「……大丈夫だよ。だって澄花が一緒なら不安なんて微塵もないだろ?」
それでも俺は伝える。何度でも何度でも澄花に伝えたい欲が収まらない。
この先もずっと明るい未来が待っているのに、忙しないと思われても仕方ないと思うけど、でも俺は知ってほしい。
飽きるくらい俺の気持ちを聞いてほしい。
「高校卒業して獅童家を継いで、まあ最初は忙しくなると思うけど、落ち着いたら二人でどこか遠くに旅に行こうよ」
ゆっくりと立ち上がり、振り返る。
誰も知らない場所に行って、何の柵もない、二人で楽しく思い出を作れたらいいと思う。
ありきたりな望みだけど、俺にはそれが一番大切なことで、誰の目も気にせずに笑い合えたら。
心の底から笑い合える瞬間を、澄花と重ね合いたい。
澄花だってきっと楽しいと思ってくれる。
この十年を少しずつ取り戻していけたらと、ずっと願ってきたから。
好きな人と向きあい、彼女の名を声に代えて、これからの季節を夢見よう。
「お前が隣にいるなら、俺はこの先ずっと――――――」
頑張れる、そう言おうとした。
でも言えない。口が動かなくなってしまった。
「どうしたのですか? あまりジロジロ見られては困りますが……」
向き合って、俺は戦慄する。
どうして気づかなかったのかと思う。これまで幾度となく気づくことができたのに。
思えば違和感はあったはずだ。なのに俺は気づかなかった。
「なんで……泣いてるんだよ……?」
澄花の頬に伝う涙と悲しそうな表情。
口調からは想像できない矛盾した姿に、俺はただ立ち尽くす。
「…………声は騙せていたと思ったのですが、やはり嘘はつけないものですね」
一粒落ち、また一粒。
止めどなく滴る涙を指ですくい、澄花は小さく苦笑いする。
なぜ笑うのか、泣いているのはどうしてか、何も分からない。
「司様、今日は最後の挨拶に来ました」
最後? 彼女は一体何を言っているのか。
そう呆然とする俺のよそに、澄花は頭を下げる。
「この十二年、御曹司である貴方といられて大変名誉の限りでした。獅童家当主となられた後のご活躍も、私は遠くから見守っています」
まるで最後の別れを惜しむような言いぐさ。
顔を上げ、涙を流しながら笑みを向ける彼女は、俺の知っている彼女とは違って見えた。
「な、なにを……」
今聞かなければならないことはたくさんあるのに、ようやく出てきた言葉はとっくの昔に脳裏に浮かんだ言葉で。
身体中が凍ってしまったように、思考がままならない。
「最後にこれだけは伝えておきたかったんです。だから、これで良かったんですよ」
その場を去ろうとする澄花。
俺は反射的に彼女の手を掴む。
「待ってくれよ……ひとり勝手に納得するなよ。全然分かんねーよ、なんで、なんでだよ……」
出てきた言葉を放り投げる。
少しでも理解したくて、でも頭がそれを拒んでしまって、ぐちゃぐちゃなままで。
そんな俺へ振り返り、澄花は笑顔を振りまく。
依然として流れる涙がとても幻想的で、目を逸らすことができなくて。
「――――――もう夢を見るのは、終わりにしましょうか」
最後の言葉はいつまでも、呪いのように歪に溶けていった。
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