メイド長の朝は早い

窓の向こうから聴こえてくる鳥のさえずり、その音で目が覚めた。


カーテンの隙間から差し込む光がとても眩いけど、どこか懐かしさを覚える。


そうか、今は夜ではない。




「…………朝」




上体を起こし、私はそう呟く。


それと同時、朧気に視界に入ってくるのは今までと違う世界。


濃青が次第に薄れ、昇りはじめた朝日と交じり合って幻想的な空間に仕立て上げられている。


いつも私が見てきた世界。そう、長らく忘れていた光景が視界に広がっていた。




時計を見ると、時刻は5時。そろそろ起きなくてはならない時刻だ。


でも少しだけ感傷に浸ってしまう。胸の奥でもやもやが晴れないでいた。




「あれは夢……だったのかな」




常識では考えられないことばかりの連続でどうしても頭が理解してくれない。


確かにタイムリープを経験したという証拠もないし、もしかしたら全部私に都合の良い夢だったのではとさえ考えてしまう。


不安で押し潰されてしまいそうになる。だって、そう考えた方が自然だから。




「…………」




ベッドから起き上がり、酷く腫れ上がる顔を洗い、なんとか身支度を済ませる。


不安は募る一方だが、6時になれば朝の業務連絡をしなければならないし、その後の給仕も監督しなければならない。


時間は有限。一つスケジュールが崩れてしまえば他全てが瓦解する。


私の気持ちなど今は二の次だ。




メイド服を身に着けた私はゆっくりと音を立てないよう気をつけて自室を出る。もちろん廊下には誰もいない。


奥まで見通すことの出来ないほど長い廊下を歩き続け、私は旦那様と奥様を起こしに行く。


とはいえ、お二方は私が寝室に向かうより以前に既に起床していることが常なので、扉をノックして朝食の時間を伝えるに留めた。


だが問題は一つ、御曹司がまだ眠っているということ。




「司様、そろそろお目覚めの時間です」




部屋の前で声を掛けるが、相変わらず返事はない。


この時間帯なら基本的に司はまだ寝ている。


ベッドの上で布団に包まりながら、今もずっと夢の中で溶け込んでいるのだ。


こんなにも不安でたまらないのに、それでも給仕をしている私に対して、なんとデリカシーのない男だろうか。




―――そうだ、司のせいだ。私を無自覚に苛立たせるのが悪いんだ。




「…………失礼します」




だから私は静かに扉を開けた。御曹司が寝坊などしては世間に顔向けできない、そんな建前を作って私自身に言い聞かせながら。


今までならいくらでも隠せた。誰にも悟られないよう、必死に演技してきた。


でも途方もないタイムリープのせいで私の頭は馬鹿になってしまったのかもしれない。


今すぐに司の顔が見たいと、もうそれしか考えられないのだ。




部屋に入りベッドに近づくと、静かに寝音を立てている司の寝顔が露わになる。


やはり司は夢の中にいて、いつもの凛々しい表情が僅かに崩れていた。




「カッコいいな……」




さっきまでイライラしていたのに、司を見た途端に嬉しさがこみ上げてくる。


不安一色だった胸の奥がスッと軽くなっていくのを感じた。


やっぱり私は司のことが好きでたまらない、そう自覚せざるを得ない。


鏡を見れば私の顔はニヤついているに違いない。だから司には絶対に目覚めないでいてほしい。


起こしに来ておいて目覚めないでほしいとは、本当に矛盾している。




―――でも仕方ないでしょう? こんなにも好きが溢れてしまうのだから。


顔を見ただけで安心するような単純な女とは思われたくないのに、いつまでも動悸が収まらないのだから。




けれど、これではっきりとした。やはりあの出来事は現実で、夢などでは到底説明できないものだと。


単なる夢で私がここまで取り乱すとは思えない。冷静さを欠いても、そのくらいの思考は働く。


嘘つきな私が自身さえ騙せなくなっているだなんて信じたくないけれども。




「どうしよう……」




この気持ちに嘘をつけなくなった私は以前までのように冷静に振る舞えるのだろうか。


話してもいない、ただ寝ている相手の顔を覗き見ただけでこの動揺。


自信がない。この先もずっと平生を保てるとは思えないのに―――






――――――ピクっ






司の眉間が唐突に動く。


思わず心臓が跳ねるが声を抑えることができた。


その間にも司の動きが大きくなり、そして―――




「…………夢?」




司が目覚めてしまった。


瞳が見開き、ゆっくりとこちらを伺うように見つめてくる。




「――――――」




吸い込まれそうになるほど魅惑的な瞳、猫のように丸まった黒髪、普段と違う気怠そうな雰囲気。私だけがこれを享受しているのだと意識してしまうと途端に心臓が高鳴ってしまう。




でも同時に苛立ちが募ってしまう。


なぜ私だけがこんな一方的に揺さぶられないといけないのかと。これでは不公平だろうと。


情緒が不安定になっているのは自覚している。


それでも、このまま無自覚に嬲られ続けるのはもう御免だ。




「どうしたのですか司様。まだ寝ぼけていらっしゃるようなら冷水のご用意をいたしますが。冷たい真水を浴びれば夢うつつな気分もきっと覚めましょう」


「いや違うって! 澄花は覚えてないのか!? 俺達ずっと同じ時間を繰り返してさ! ほら、タイムリープだよタイムリープ!」


「タイムリープ? はて、なんのことでしょうか……」


「えぇ!? 嘘でしょ!?」




次第に言葉を失い、表情が暗くなる司。あの出来事が夢であるとは理解しがたい様子だった。


これでもかと項垂れ、今にも泣きだしそうになっている。


その姿を見て、私は可笑しくなってしまった。




「…………ぷっ、ふふふっ」




耐えきれずに笑みが零れてしまう。


何が起こったのか理解できずに困惑する司。それを見て少しの罪悪感を覚えるがそれ以上に実感が沸いて仕方ない。




それほどまでに私のことが好きなのか、その実感が胸の奥に心地良く溶けていく。


「なんだ夢じゃなかったんだ……、あぁ良かったぁ……!」



そしてあの出来事が現実だと分かり安堵する司を見て、私はこう思う。




夢ではなくて良かった、それはむしろ私自身への言葉だと。

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