御曹司は朝を迎える

自分は今幸せ者なのではないかと思う。


救われたような気持ち、いや何て言い表せば良いのか。


心がふわふわとどこか遠くに行ってしまったように浮足立って、背中に羽が生えたように身体が軽い。


いつまでも足を浮かせ、まるで夢のようで――――――




「…………夢?」




目が覚め、一番に出た言葉がそれだった。




「おはようございます、司様。もうすぐ朝食の準備が終わりますので、そろそろご起床願います」




目を開けたまま放心する俺の隣では、メイド服の澄花が手を前で合わせながら淡々とした表情で迎えてくれていた。




「あ、ああ……おはよう」




取り敢えず澄花にそう言う。目が覚めて最初に澄花が視界に入ってくるのはとても気分がいい。


でもなにか大事な事を忘れているような……




「制服はご用意ができていますので、司様は身支度を済ませて食堂へ。すでに旦那様と奥様がお待ちです」


「はぁ、父さんも母さんも早いんだよなぁ……いっつも20分前行動だし」




愚痴を言いながらもベッドから起き上がる。


途端に身体が重くなるがいつものことだ。昔は早起きが苦手だったのに、本当に人は変わるものだとしみじみ思う。




ってあれ? 変わると言えばなんだったか。 なにか思い出せそうな――――――




「―――ああ!? 朝になってる!?」




思わず声が荒げる。




「どうしたのですか司様。まだ寝ぼけていらっしゃるようなら冷水のご用意をいたしますが。冷たい真水を浴びれば夢うつつな気分もきっと覚めましょう」


「いや違うって! 澄花は覚えてないのか!? 俺達ずっと同じ時間を繰り返してさ! ほら、タイムリープだよタイムリープ!」


「タイムリープ? はて、なんのことでしょうか……」


「えぇ!? 嘘でしょ!?」




あれが夢だったとでもいうのか。


一ヶ月半にも及ぶ告白も、最後の出来事も、二人で交わした約束も、全て俺が見ていた夢だというのか。


いやでも冷静になれば分かるはずだ。あの澄花が俺に告白してくれるなんて、そんな都合良い話があるはずないだろう。




「そっか……あれは夢、だったのか……」




あれほどにリアルな夢なら、そのままずっと覚めてほしくなかった。


口元に残る澄花の温もりも、脳裏に広がる澄花の表情ひとつひとつも、あの時感じたもの全てが幻だったなんて信じられない。


でも、全部夢物語なんだ。


そうだ、あれは夢だ。もう納得するしかない。




「…………」




じゃあ、今後俺はどんな風に澄花と話せば良いのだろう。


一度覚えてしまった澄花の愛情を、例え偽りだったとしても、それが全て夢でしたと投げ捨てられるほど俺は賢くない。




また初めからなんて、俺には耐えられないーーーーーー




「…………ぷっ、ふふふっ」




突然の噴き出し笑い。


状況に頭が追いつかず困惑していると、澄花が手で口元を押さえながら言った。




「す、すみません……少しばかり揶揄うつもりが、まさかここまで本気になさるとは……」




いつもの冷めた表情から一転、くだけた顔で笑みを浮かべる澄花。




「え、と……どういうこと?」


「夢ではありません。あれは全て現実にあった出来事ですよ、司様」


「夢では、ない……」




言葉を反芻する。


何度も繰り返し、ようやく理解が追いついてきた。




「なんだ夢じゃなかったんだ……、あぁ良かったぁ……!」




嘘なら早く言ってほしかったのに。雰囲気的に完全に騙されてしまった。


でもそうか、澄花は嘘をつくのが上手いのか。なるほど、今後のために覚えておこう。




「司様のあの慌てよう、しばらく忘れられそうにありませんね」


「ほんとに勘弁してよ……名演技だから余計タチが悪いって」




涙目になるまで笑っている澄花。


次第に落ち着きを取り戻すと、もう満足したのか朝の業務に戻ろうとしていた。




「え、もう行っちゃうのか?」


「はい、これから朝の業務連絡をしなければならないので。司様もそろそろ切り替えなければ後で旦那様に叱られてしまいますよ」


「それは……嫌だな」




獅童家当主、獅童正嗣しどうまさつぐは厳格な人だ。


亭主関白な考えを持ち、俺とは正反対の思考。


要は相性が悪いのだ。




「それに、約束も守っていただかなくてはなりませんから」


「……ああ、分かってる」




昔は二人でいることを許してくれたが、父さんが俺達のことを許すはずがない。


政略結婚だとか身の丈に合った恋愛だとか、俺の嫌いな思想ばかり押し付けてくるに決まってる。


得の無い面倒事は極力避けるべきだ。




「ちゃんとバレないよう普段通りに振る舞うよ……澄花が望むなら」


「それが聞けて安心しました」




本当ならもっとイチャイチャしたい。


手も繋ぎたいし、キスもしたいし、抱きしめたいし、なんならその先のことも……興味はある。


せっかちなのは自覚しているけど、十年以上待ち望んでいた瞬間なのだ。飽きるくらいもっと澄花と一緒にいたい。




でも澄花がそれを望んでいないなら、俺はいくらでも我慢する。


今までと違い穏やかな表情を俺に見せてくれる、それだけで今は十分だ。




「ではまた後ほど。私は業務連絡に行ってまいりますので」


「ああ、頑張って」




扉に手を掛け、澄花はその場を後にする。


が、途中で足を止め、踵を返した。




「…………夢でなくて良かったですね」




最後にそう言い残し、澄花は部屋から出ていった。


名残惜しさのカケラもない、なんともいたずらな言葉である。


本当に悪戯好きだ。




「はぁ……イチャイチャしたいなぁ」




はたしてこの欲求を抑えられるのか、少しばかり不安に駆られてしまった。


本当に俺はこの先ずっと我慢し続けられるのだろうか、と。

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