第27話


 本当はずっと訊ねたいことがあった。


 どうしてだれかに愛された分、だれかに憎まれるんだろう?


 そんなに悪いことをしているのか?


 愛してくれと頼んだわけじゃない。


 優先してくれと言ったわけじゃない。


 きらわれようと愛されようと、それを決めるのは相手の方で、おれにはどうすることもできないのに。


 そんなに憎まないでくれ。


 何度もそう言いかけて、でも、言えないまま唇を噛む。


 憎まずにいられない気持ちが、おれにはよくわかるから。


 意味がないと知っていても、だれのせいでもないとわかっていても、だれかを憎まなければ立っていられないことがある。


 たぶんそれはおれが兄上を憎まずに、自分の足で立っていられないことに似てるんだろうな。


 あの人が好きだから、傍にいてほしいから、望めない今、憎まなければ立っていられないんだから。


 幼い頃、だれよりもあの人が好きで、どこにいても兄上を探して追いかけてた。


 もう思い出せない遠い昔。


 あのころの名前すら憶えていなくても、どんなに好きだったか、それだけは憶えてる。


 好きだったから、だれよりも愛した人だから、裏切りを許せなかった。


 受け入れることもできなかった。


 衛の傍を離れたら、昔に戻れるような気がしたんだ。


 兄上がいなくても、もしかしたら惺夜は、昔の彼に戻ってくれるかもしれない。


 そんな叶わない夢を見てた。


「一緒に遊ぼう」


 そう言ってくれた友達に戻ってほしくて、彼をわがままに巻き込んで、身動きもできない自分に気づくなんて……。


 死ぬほど焦がれた兄上が、あんなに逢いたくて、傍にいてほしかった人が、今、目の前にいるのに、手を差し延べてくれているのに、突然、昔には戻れないと気づいたんだよ。


 だって兄上の手を取ったら、きっと惺夜は裏切られたって思う。


 おれが惺夜より兄上を選んだって、何度違うって言っても、きっとそう思う。


 惺夜は……口には出さないけど、ずっと兄上に嫉妬してた。


 おれが兄上を思い出す度、兄上のことで泣く度、あいつはいつも怒ったように抱きしめてくれたから。


 こんなときに兄上のことを教えたら、きっと何度違うって言っても、そう思うよ。


 やっぱりおれは衛より、惺夜より、兄上を選ぶんだって。


 ずっと一緒に過ごしてきた自分たちより、やっぱり兄上を取るんだって。


 きっとどんな言葉も、あいつには言い訳に聞こえてしまう。


 兄上の手を取ることは、紫苑として過ごしてきた日々のすべてを捨て去ること。


 いきなり気づいて前にも後ろにも進めなくなったんだ。


 何故なんだろう?


 おれはいつも失ってから、その大切さに気づくんだ。


 ワガママかな?


 それでも兄上も惺夜も衛も、みんな好きなんだ。


 みんなが好きで、その中のだれかひとりは選べない。


 兄上も衛もおれにとっては保護者で、きっと今更、両立はできない。


 兄上が地球にいる今兄上の手を取ることは、過去と決別することだから。


 いつまでも大好きだよ。


 おれの兄上はこれからもずっとあなたひとりだ。


 ずっとずっと愛してる。


 だから、おれはあなたを許さないんだ。


 憎むことでしか、あなたを思えない。


 求められない。


 わかってる。


 おれのワガママだよ。


 ワガママであなたを苦しめて傷つけてる。


 ごめんな……。


 だれかを憎んで自分を保つ。


 なにも生み出さない、なんの解決にもならないことだけど、確かに生きていくために必要なことがある。


 だから、おれ、わかるよ。


 ふたりがおれを憎まずにいられない気持ちが。


 おれを憎むことで痛みをごまかせるなら、それで構わないよ。


 だっておれがあのふたりを独占しているのは事実だから。


 ごめんな、蓮華。


 そして……綾乃義姉上。





 鬼女王、 綾乃が水樹と出逢ったとき、彼は懐かしそうに眼を細めてみせた。


 決して尋常な出逢いではなかった。


 綾乃は人を襲った直後だったし、 水樹はそれを助けた相手だった。


 人間を助けて綾乃を威圧した方だったのだ。


 だが、正面から眼を合わせたとき、なぜか彼は、とても懐かしそうな顔をした。


 懐かしいと顔に書いて、まっすぐに綾乃を見た。


 あのとき、彼が何故あんな顔で綾乃を見たのか、気づくべきだったと思う。


 今となっては操り言だけど。


 あの人が何者でもいい。愛されて愛していたい。


 そう願った綾乃のささやかな望みは、紫苑の出現で破られてしまった。


 思いがけない形で。


 生存を賭けた戦い。共存を認めない人間との長い。


 水樹の協力を得て、彼が頂点に立つことで初めて纏まった自分たち。


 優位に見えた戦いだったのに、ある日、人間たちのあいだで奇妙な噂が広がった。


 今思えばそれがすべての始まりだったのだ。


「人間たちに守護神が、ね。馬鹿げた噂だよ。神などこの世にいるものか」


 冷たい横顔でそう吐き捨てたのは、大半の魔物を率いる魔将、紫だった。


 彼はその吸血族の長としての類稀な美貌と、蠱惑の瞳、強大な力で、力がすべての魔物には慕われていた。


 どれほど冷酷に仲間を見切る者でも、それが許される魔物としては、彼はまさに理想だったのだろう。


 凍てつくような孤独を瞳に浮かべた紫は、その美貌さえ人間たちたちに対して武器となす。


 彼がその気になれば人間をすべて虜にすることができたはずだった。


 犬も魔将はそんな酔狂さを持ち合わせていなかったが。


 窓際に立つ紫に皮肉るような声を投げたのは、彼と一番長い付き合いの幻将、蓮であった。


「事実らしいぞ」


 ムッとして振り向いた魔将の蠱惑の瞳を受け止めても、元々が精神体の蓮は対して感慨を受けなかったようだ。


「神だという真偽のほどは別にしても、人間たちが守護神と頼む実力者であることは確かだ。昨日、赤の谷で狩りをしていた連中が返り討ちにあった。それもたったひとりの子供に、だ」


「まさか」


 驚きすぎてそれ以上声にならない紫に代わって、床に座り込んでいた鬼将、悠が、ふたりの会話に割り込んだ。


「その話なら、わたしも聞いた。まだ15にも満たない子供だったそうだな。だが、その強さたるや、恐ろしいものがあったと聞く。

 ほとんど抵抗らしい抵抗ができないまま全滅したらしい。逃げ帰ってきたのは、たったひとりだった。不甲斐ない愚か者は、今頃、だれかの腹に収まっているだろうがな」


 冷たい制裁を仄めかす鬼将、悠に紫が冷ややかな視線を注ぐ。


 彼とこの鬼将とはいわゆる犬猿の仲であった。


「その程度の失策で仲間を喰らうとは、鬼族は相変わらず野蛮だね」


「紫」


「たったひとりの目撃者を殺しては、なんにもならない。そういった切り札は、たとえ不甲斐ない敗者でも有効に使うものだよ。これだからきみは短慮だというんだ、悠」


 無表情に近い顔で悠が立ち上がったのを見て蓮は潮時だと感じた。


 このまま放置すれば、間違いなく決闘沙汰である。


「終わったことを言っても始まらないだろう。紫。悠。これからの対策を練るべきではないのか? なめてかかると、こちらの方が危ういかもしれないぞ」


「それもまた一興だね。楽しみだ」


 生きることに執着すらもたない紫に、投げやりな返答をされ、蓮が口をへの字に曲げる。


 今更言っても仕方がないが、どうも紫は自暴自棄で困る。


 このいつも気怠そうで怠惰な怠け者を、どうすれば本気にできるのか、だれかに教えてほしい心境だ。


 紫と心中する魔物は、それこそ半分の数では済まないというのに。


 今、紫が戦線を離脱すれば、半分以上の魔物が彼に従うだろう。


 その影響力を知っているのかいないのか、この馬鹿はいつも投げやりだ。


「また仲間割れかい? 三将軍がそれではわたしも困るね」


 綾乃を従えて姿を見せた水樹が、含み笑いを浮かべ、三人に声を投げた。


 統制というものとは無縁の彼らである。


 纏めるのは並大抵の苦労ではなかった。


 自己主張が強く、単独行動を好む魔物だ。


 気を抜けばすぐに仲間割れを起こす。


 特に紫と悠は一晩同じ部屋に閉じ込めれば、間違いなく殺し合いを始めるだろう。


 部族を率いる三将軍がこれでは困るのだが。


「紫はなにかと悠を目の敵にしているね。なにがそんなに気に入らないわけだい?」


「くだらないことを。すべてに決まっているよ。野蛮なところも、短慮で馬鹿なところも、ひとりで突っ走るところも、全部キライだよ、わたしは」


 堂々と言い張る紫に、悠は呪い殺したいほどの眼で睨んだ。


 女王とその夫君の前なので、懸命に耐えていたが。


「そう。君にはない彼の熱いところがキライ、というわけだね」


 何気なく致命傷をついてくる水樹に、これだから食わせ者だと、紫がムスッとそっぽを向いた。


 いつも熱くなれない紫にしてみれば、すぐに熱くなって過激な方向に走る悠は、その正反対なところが気に食わないのだ。


 これは憧れの裏返しのようなものである。


 焦れる自分の気持ちの意味すら、この頃の紫は知らなかったが。


「ところで、なにか面白い話し合いでもしていたのかい? いつになく深刻に揉めていたようだけれど」


 紫と似た穏やかな話し方なのに、受ける印象は天と地ほども違う水樹に、三将軍が代わる代わる説明を始めた。


 自分たちでは分裂してしまうので、纏め役としての彼の存在は、三人とも認めていたのだ。


 興味深い話に、水樹は何故か、その端正な顔を曇らせた。

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