第38話 先輩、膝、借ります。

 昨日の夜。先輩の肩を枕に寝てしまった夜。


「あーーーーーーやってしまった――――――」


 というかなんですか。何が好きにして良いですよ、だ!


「うぅ」

「はぁ。香澄さん、今度は何をやらかしたんですか」

「失敗した前提で話さないでください……」


 松江さんのため息が微かに聞こえた。


「まぁ、話してみてくださいよ。これでも大学ではそれなりにモテるのです」

「でしょうね」


 年長者の意見は聞くべきだ。そう判断した私は松江さんに洗いざらい吐いた。


「……ところで香澄さん。一応聞いておきますが」

「はい」

「香澄さんは件の男とどうなりたいのですか? お付き合いは視野に入っているのですか?」

「……考えたこと無いですね」

「は?」

「え?」


 松江さんがここまで低い声でイラっとした表情をするのは珍しい。


「……はぁ。ようやく腹を括ったのかと思えば。えっ、では、どうして『好きにして良いですよ』などと、年頃の男にほざいたのですか?」

「えっ……? 何でですかね。あ、あの、松江さん?」


 松江さんが凄い顔をしている。なんかこう、信じられないものを見たというか。新種の生き物を見つけたというより、蔵書を片付けていたらGが発生していたのを見つけた時のような。


「……ところで香澄さん。初恋は?」

「したこと無いですね。この人、といった人を見つけたことがありません」

「そうですか。よくわかりました。香澄さん。あなたに課題を与えます」

「えっ」

「これもこの家の使用人としての勤めですね。香澄さん。あなたは今一度、自身の気持ちと向き合うことです」

「えっ……どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味です。香澄さん。今一度、自身の気持ちとちゃんと向き合わなければ、また今のように無様にベッドの上でのたうち回ることになります」

「そ、そうなんですか」


 松江さんは年上の女性。その言葉に納得できるかどうかは別として、無下には出来ない。それに、『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』という。なら。今は自分を知る時というアドバイスは、きっと正しい。


「明日、起こしに行くと言っておりましたね。その件の先輩と過ごしたいように過ごす。したいようにする。そんな課題を与えます」

「わかりました」


 ……はぁ。

 大きく頷く香澄さんを見て、内心、ため息一つ。

 松江亜紀。大学二年生。去年からこの家に使用人として勤めているが。


「はぁ」


 香澄さんの部屋を出て廊下、耐え続けた息が漏れてしまう。

 こういう時、両親が家にいればと思う。

 月に一度帰ってくれば良い方の両親。彼女も、寂しいのだろう。私一人では埋められない穴。

 何かを始める時。バイトを始める時や一人で登下校やバイトの行き来をする許しを得る時。勝手にそうすれば良いのに、私に報告だけすれば良いのに、いちいち彼女が自身の父に許可を求める電話をするのは、そういうことだ。

 私のとっては妹のようなもの。その妹が、初めてのことに揺れてるというのなら。まぁできる限りのこと、時給分とは言わず、少し割を食うくらいが丁度良いのだろう。

 それが恋なのか。ただの甘えたい欲の表れなのか。


「知ると良いです。香澄さん」




 「んで、朝飯食ったは良いけど、どうするんだ? バイトまで時間あるぞ」

「そ、そうですね。では」


 先輩と過ごしたいようにって……どうすれば。

 リビングのテーブル。座布団をカーペットの上に敷いて座る。先輩も机を挟んで向かい側に。それから紙束を置いて。


「まぁとりあえずこれに目を通してもらうところまでは確定だけどさ」

「そ、そうですね。まずは、これを読ませていただきます」


 そもそも私は先輩と一緒に過ごしたいなんて一言も。そりゃ、昨日のお出かけ、誘われた時は嬉しかった……嬉しかった? 何を考えているんだ私は。


「バイトの準備は?」

「着替えは持って来てあります」

「そうか」

「むぅ……」


 私は私がわかりません。先輩は、尊敬している。それに尽きる。と言い切れないだろうと頭の中で囁く私がいるのです。


「どうした? わかりにくいところでも」

「いえ、大丈夫です。釣りの基礎、薪の選び方、着火剤になる山で採れるもの。火起こしの基本。特に間違えやすい山菜やキノコ。山で野生動物と遭遇した際の対処法。どれもしっかりまとまっています」

「そうか」


 そもそも先輩はすごいのに適当なところがある。改めて欲しいところは結構ある。そりゃ、最近は少し柔らかくなったというか。以前に比べてちゃんとするようになったというか。でも、だからと言って。そう。恵理さんも松江さんも、なんでそういう方向に持って行きたがる。


「んー?」


 香澄の様子が変な気がする。と言えば良いのだろうか。なんかそわそわしている。資料に集中しきれていないような。

 なんでだろ。


「先輩」

「ん?」

「……こほん」

「んー? どうした? トイレならそこだ」

「違います。なんでトイレなんですか」

「いや、顔赤いし、なんかもじもじしてるし」

「はぁ。違います。その……やっぱり、なんでもありません」

「あ、あぁ」


 言えない。言えるわけがない。膝に座ってもよろしいですかとか。でも、せめて。


「お隣に移動しても良いですか?」

「隣? 良いけど、なんで?」

「いえ。あー……照明の辺り加減でしょうか。そっちの方が見やすい気がしまして」

「そうか。じゃあ、俺がそっちに」

「い、いえ。先輩をどかすわけにはいきません。気にせずそこで、はい、座っていてください」

「あ、あぁ」


 なんだ。なんなんだ。いや、時刻はそろそろ八時になる頃。香澄はそれなりに早起きをしている筈。テンションがおかしくなるのも無理はないだろう。


「あー、眠い時は、適当に昼寝とか、して良いから」

「あ、はい」


 先輩と二人、先輩の家で。


『お家デートですね』 


 と、頭の中で松江さんが意地悪に微笑んだ。


「む、むぅ」


 落ち着け。今は目の前の資料に集中! 先輩だって、隣で頬杖ついて本を読んでいるのだから。……うわ、肌きれい、不摂生してるのに。まつ毛も長い。髪も綺麗だな。 

 ぱしんっ!


「えっ? 何してるの?」

「気合いを入れ直しました。思ったより強く叩いたので頬がヒリヒリします」

「あー……ほどほどにな」


 それから一時間。

 ……隣から凄く良い匂いがする。何の匂いだ。なんかこう、爽やかな甘み。何の花だろう……金木犀。そうだ、金木犀の香りだ。


「懐かしいな」


 花言葉に、気高い人とか、あった気がする。教えてくれたのはあの子だった。小学生の頃、話したことがある数少ない子。


「ん?」 


 ふわっと鼻先をくすぐったサラサラの髪。ぽてんと肩に重み、それがずり落ちて。太ももに落ち着いたそれは。


「香澄?」

「すぅー」

「えっ」


 ……どうしろと、これ。

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