第10話 先輩、夜道、送ってくれるんですね。

 一般的に凄いことをしている自覚はある。それで尊敬されることもありえるだろうけど、人間的に好かれることは無い筈だ。


「だからまぁ、冗談だと思っていたんだよ」

「何がですか?」

「何でも」


 有言実行とはこのこと。双葉さんは今、俺の家でエプロンを付けている。


「はぁ……先輩がカセットコンロ持っていて助かりました。より雰囲気が出ます」

「そ、そうか」


 俺の住むマンションの一室。香ばしい甘味も感じられる醤油ベースの香りが漂う。非常に食欲をそそる香りである。

 その発生源はリビングのテーブルの中央、ぐつぐつと湯気を立てるのはすき焼きである。  

 食べるのは随分と久しぶりだ。かなり美味しそうでもある。だけど。


「今更だが、なぜすき焼きなんだ?」


 向かい合わせに座る双葉さんはお椀に生卵を落としてかき混ぜている。


「お嫌いですか?」

「そんなことは無いが」

「では食べてください。こちらのお肉、良い感じですよ」

「あ、あぁ」


 それはバイトが終わり、双葉さんは親に連絡すると言い。普段より少し激しい口調での言い合いが聞こえたが、三分ほどで。


「お待たせしました。では、少しお買い物しましょう」


 なんて言って、バックヤードから出て、その手には買い物かごが握られ。

 卵、すき焼きのたれ、ネギ、白滝、しいたけ、えのき、春菊。焼き豆腐、うどん。


「かご……持つから寄こせ」

「! ……ありがとう、ございます」


 おずおずと、どこか恥ずかしそうに差し出される。……なんか変なこと言ったか、俺。


「……そういば、なんて言ったんだ? 親に。迎え、断ったんだろ」

「はい。先輩って有名人ですね」

「なぜ」

「先輩に勉強を見てもらうと言いましたら、お父さんが、『あぁ、あの、有坂か』と。納得された様子でして」

「えぇ、こわ」 


 知らない人に一方的に知られてるって怖いな。


「大丈夫ですよ。流石に、先輩の家でやるとは言っていませんから」

「そこを気にすることができるなら、なぜ俺の家に来ようと?」

 そう聞くと、半額の国産牛すき焼き肉に落としていた目を上げ。

「安心してください、もし変な気を起こしたら、物理的にも精神的にも潰しますから」

「こわっ」

「マジトーンやめてくださいよ」


 いや、そんな睨むだけで人を二、三人殺せそうな目で言われたら誰だってそんな反応になる。とはとても言えない。


「確かに、冗談のつもりはありませんが。先輩が変な気を起こさなければ良いだけです。つまり、過度に怖がる必要はありません」

「そ、そうだな」

「飲み物は何がよろしいですか?」

「コーラ」

「コーラ、ですか」


 七百ミリリットル入りのコーラを一本持ち上げると、双葉さんはしげしげと、黒い液体が入った容器に視線を注ぎ。


「では、私も同じものを」


 と、同じものをカゴにいれた。まあ、飲み切れなかったらゆっくり消費して行けば良いか。


「ここは私が」

「いや、金くらい俺が」

「言い出しっぺは私です」

「食わせてもらうのは俺だ」


 言葉でわからないのならばと、お互い軽く睨み合いながら財布を押し戻し合う。


「さっさとお金出して、夫婦喧嘩は余所でやってもらって良い?」

「そういうのではありません」

「そういうのではないです」


 今日の遅番のレジサブチーフ、木口さんが呆れたようにため息。


「割り勘すれば良くない?」

「……妥協案です」

「そうだな」


 それから家に帰り、三十分ほどして完成したのだが。


「スムーズだったな、作るの」

「すき焼き自体はよく、お手伝いしていました」

「なるほどな」


 解き卵に煮えた牛肉を……。


「う、美味い」


 口の中で肉が、蕩けるように消えた。この旨味は、脂の旨味か。それが割り下と溶き卵とよく絡んでいる。


「良かったです。って、お肉自体が、良いものですから。材料に助けられた部分が大きいです」

「そんなことはない。良い材料も、料理する人間が酷ければ、その持ち味を発揮しきれない」

「そう、ですか。ありがとうございます。では、私も」


 食べきれるか不安だった。すき焼き鍋一つ分。予想外に双葉さんが健啖家だったのと、あと、やっぱり美味しかったから、すぐに具も少なくなり。


「では、うどん、行きます」


 残ったスープで肉うどんだ。

 うどんが煮えるまで待つ間。


「家では、喧嘩をした後は、すき焼きという決まりなんです。父が、同じ鍋を囲めば絆が生まれるとよく言っていました」

「ってことは、お手伝いさんではなく」

「はい、すき焼きを作るのは父です」

「へぇ……ん? 喧嘩した後?」 


 そう言うと、こくりと双葉さんは頷いて、それから、机に額を付ける勢いで頭を下げた。


「ごめんなさい、先輩。先輩の主張を聞かず、一方的に問題があるなどと」

「い、いや。一緒に教えている……仕事仲間だからな、そういうのはちゃんと伝えてくれるとありがたい。この前、言ってくれただろ、一言相談してほしいと。その通りだ。教えているのは、俺だけじゃない……」


 言いながら気づく。何を一人で教えている気になっていたんだと。昨日痛感したばかりじゃないか、俺には人間関係の経験が少なすぎる。冷静に考えて、双葉さんの助けが無ければ余計な時間をかなり食うことになるだろう。だというのに。


「本当に、すまない」

「いえ、その。私の言っていることが本当に正しいのか。その、直情的なところがあるので。改めなければいけないと思っているのです。なので、その……」

「いや、とりあえず双葉さんの感じた問題点、教えてくれるか?」

「は、はい」


 緊張を解すかのように深呼吸をして、それから。


「その、先輩は問題の解き方の順を追ってやり方を教えましたよね」

「そうだな」

「確かにそれ自体は丁寧なやり方と言えますが、上から押し込むように教えているだけなんですよ」

「だが、恵理に聞いたところ、君も解説が中心だったと」

「そうですね。ですが私は、恵理さんに一緒に解いてもらいながらやっていました」

「……どういうことだ?」

「明日、一緒にバイト休みですよね」

「あぁ」

「私のやり方、見ていて欲しいです。いつもと逆ですね」


 その時見せた双葉さんの笑みが、どこか眩しくて、柔らかくて、何というか、見惚れた。

 微かに首を傾げて頬を引き上げただけなのに。たったそれだけなのに。懐かしい気持ちになった。教えられたことが上手くできない子どもを見て、「しょうがないですね」なんて言っている。そんな映像が頭に浮かんだ。

 だからだろうか、酷く、ふわふわした心地に包まれて。そして。


「あぁ、明日は、任せる」

「はい!」


 と、どうしてか素直にそう言えたんだ。

 



 「送ってく」

「い、いえ。そこまでしなくても」


 食べ終わり、洗い物までしてくれた双葉さんを、玄関先で「はい、さよなら」なんてできるわけがなかった。


「送っていくと言ったら送っていく。たまには先輩の言うことくらい、素直に聞け」

「な、普段は反抗するみたいな……」

「してないのか?」

「そんな、やることなすこと言うこと全てに反抗なんてしません」

「なら、今回俺はまともなこと言っているだろ。迎え呼ばないなら、夜道はなるべく一人にならない方が良い。女の子が」

「そうですかね? こんな、何事にも噛みつくような印象の悪い女、誰が相手しますか?」

「……君、意外と根に持つんだな」

「はて、何のことでしょうか」


 あっけらかんとした表情、見慣れない、双葉さんの少し茶目っ気のある顔。

 想像していただろうか、彼女の色んな顔を見られる日を。

「ほら、さっさと行くぞ。玄関先でうだうだする時間がもったいない」

「は、はい」


 鍵を閉め何となく見た景色。マンションの十五階から見える暗い街並み。


「先輩、エレベーター来ましたよ。ボーっとしてしまうくらい疲れたのでしたら、大丈夫です。一人で帰ります」

「なめんな。余裕だ」

 二人で歩く夜道。微かに香る夏の香り、湿った火薬のような匂いがした。

「先輩が送るなんて言いだすとは思いませんでした」

「なんで?」

「先輩、私のこと、苦手でしょう」

「そんなことはない。お前こそ、俺のこと嫌いだろ」

「……嫌いな人の家に行ってご飯をせっせと作るような人間と思いますか?」

「……俺も、馬鹿なこと言うんだな」

「そうですね」


 恩返しにしたってやり過ぎだ。嫌いな人間への恩返しなんて、適当に菓子折りでも押し付けるのが、普通の人の心理か。

 チーフに言われたことを思い出す。目の前の人のこと、ちゃんと見ろか。


「先輩にしては、考えの足りない発言です」

「俺だって、いつでもあれこれ考えているわけじゃないからな」

「……そうですね。いつでもどこまでも何でも見透かしてますという顔をしていても、先輩だって、高校生ですからね。私達」

「そんな風に見られてたのか、俺は」

「はい。先輩と関わってきた時間、きっと今の方が密度は濃いですが、それでも、やはりバイトでのイメージが中心で。トラブっても先輩にお願いすれば処理してくれて……」


 手が触れ合った。いつの間に、お互い、近づいていたのに気づいて。


「……すいません」

「い、いや。こちらこそ」


 どうしてだろう。頬が熱い。手も、一瞬の感触を、鮮明に記憶している。少し冷たくて、でも、滑らかな感触を。

 人の賑わいが少しずつ増えてきて、駅前まで来たことに気づいて。


「あの、先輩」

「ん?」

「先輩は正直、性格上、向いていません。接客業に」

「はっきり言ってくれるな……そうだとは自分でも思うけどさ」

「なら、どうして接客業を、高校生のアルバイトとはいえ、他に選択肢が無いわけでも無い筈です」

「かもな」

「今日、お家を拝見させていただいて、生活に困っているようにも見えませんでした。だからわかりません。先輩がどうしてアルバイトを、それも、あまり向いているとは言えない接客業を選んでいるのか」


 見上げてくる目は、真剣そのもの。その眼光は芯の強さを感じさせた。

 こうして見つめ合ってると、きれいな顔してるな、とか考えてしまう。


「どうなんですか?」 


 切れ長の目がスッと細められる。

 理由、理由か。色々ある。どれを言うべきだろう、双葉さんはどういう理由なら納得するのだろう。考えて、考えて。


「大した理由なんてねーよ」


 双葉さんに語って聞かせるほどの理由はない。そう判断して。


「金が欲しかっただけだ」

「何のためにですか?」

「えっ」


 双葉さんの目は変わらなかった。

 質問を重ねられるなんて思っていなくて。言葉に詰まる。適当な答えだと見透かされてしまった気がして。


「いや、まぁ、そりゃ、それだけじゃないんだが」


 しどろもどろ。双葉さんは足を止めて、向き直り、見上げてくる。見つめ合う時間は永遠のようで一瞬で、時間が止まったかのような錯覚。


「……まぁ、良いです。話したくなったら、教えてください」

「あ、あぁ」


 フッと雰囲気を緩めて、再び歩き始めてすぐ、双葉さんはすぐに足を止めた。


「ここです。私の家」

「あ、あぁ」


 なんとなく見上げた建物は地上四十階ほどの高層マンション。


「失礼します。ありがとうございました」

「いや、こちらこそ。夕飯」

「お気になさらず。……楽しかったです。一緒に食べられて」

「えっ、あっ。うん。俺も」

「なら、良かったです。作った甲斐がありました。その、頑張りましょうね」

「あぁ、目標点には届かせたいな」

「はい、これからもお願いします」


 ペコリと頭を下げ、そのまま双葉さんはエントランスに入り、迷わずカードキーをかざして中へ。

 周囲の賑わいが急にはっきりと聞こえ始めて。一人になったんだな、とか柄にもなくかんがえて。思わず。


「馬鹿かよ」


 なんて。自嘲するような呟きは喧騒の中に消えていく。

 俺は、一人でも大丈夫なように、一人でも歩いていけるようになるんだ。

 もう少し話したかったとか、考えるわけが無いんだ。

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