第7話 先輩、今日の私は、忘れてください。

 電車に乗り込み、ドアの横に立ち、車窓を流れる景色を眺め、それから双葉さんはどこかぼんやりとした目をこちらに向けて。


「今日はありがとうございました」

「そんな改まって礼を言うほどのことじゃないよ」

「いえ、とても、楽しかったので」

「そ、そっか……俺も、楽しかったよ」 


 ほんの三十分程度の時間が、振り返ると、とんでもなく貴重な時間に思えた。

 電車が止まる。二駅はあっという間だ。改札を出て、それから。


「……あの、先輩」

「ん?」

「この前、その……先輩に……」


 何を言われるのか、何となくわかった。それは、俺も、ここ数日、言えていなかったことで。


「いや、君は気にするな。俺が大人げなかったというか、熱くなっただけだ。悪かった」

「で、でも。先輩は普段通りというか、普段よりも、優しく接してくれて、流してくれて。でも、その、私は、私が私を許せないと言いますか、先輩の優しさに甘え過ぎるのはどうかと思うというか。あの時、お礼すら言えなかったですし……」

「話しかけてくれたのは、君からだ。色々あったが、振り返れば君がこの話をするために。思えばお弁当だって、だったら……」

「それは違います。いえ、違わなかったんですけど。ちゃんとお礼と謝罪をしたいとは思っていましたけど、でも、今は違います」


 夕陽に照らされて顔がよく見えなくなっても、双葉さんの目が真剣なのはわかった。

 だから、違うという言葉を肯定して頷くことしかできなくて。


「……私は、先輩を知りたくなりました」

「えっ?」


 間の抜けた声しか出すことができなくなって。


「だから、明日も、明後日も。先輩にお弁当を持って行きます」

「りょ、料理練習、じゃなかったけ?」

「んなっ……し、知りません! 失礼します!」

「ん。おう。また……あっ……」


 駆けていく後ろ姿はあっという間に人混みに紛れて消えていく。


「んー……」


 何と言うか、まぁ。


「今度はどこに連れて行こうか」


 とか、柄にもなく考えてしまうんだ。双葉さんとの時間が楽しかったとか、考えているんだ。


「あれ?」


 戻って来た。


「あの、今日の私の、あの、ドーナツの時の私とか、忘れておいて、くれませんか?」

「ん? ほわぁ、とか。お口アーンとか」

「なっ……知りません。誰ですかその人」

「いや、無理があるだろ」

「しりません」

「おーい」

「シリマセン」


 そのまままた駆け出していく。


「……しっかり覚えておこう」


 あの双葉さんを記憶の彼方に追いやるのは、とんでもなく損な気がするし。





 昼休みのことだ。宣言通りあれから双葉さんは弁当を毎朝携えて声をかけてくる。


「すっかりその姿が定着したな。味はどうなんだ?」

「元々味は問題無かった。が、正直美味しくなってきてる」

「そりゃ凄い。まぁ、見た目もどんどん綺麗になってるよな」

「手際が良くなったんだろ」


 そんな会話をしていると。校内放送を知らせるチャイム。


「一年A組の双葉香澄さんと二年A組の有坂晃成君。至急、職員室まで来てください。繰り返します……」

「おっ、最近お熱いと噂の二人組にお呼び出しだぞ」

「うっせぇよ。そんなんじゃないし」

「カカカ。登下校、最近二人でいるの、目撃されてるぞ」

「はぁ」


 確かに、最近登校は毎日、下校も、バイトが無い日は二人でだ。だけど、そんな浮ついた話は微塵も無い。


「とりあえず行ってくるわ」

「おう」


 多分今の声は、うちのクラスの担任の布良夏樹先生だな。そう思いながら職員室の前に来ると、既に双葉さんと。


「あっ、初めまして。香澄ちゃんの友達の、南恵理です。どうぞよろしくお願いします」


 ペコリと頭を下げたのは、双葉さんよりさらに小柄な女の子で、癖っ毛が印象的な女の子だ。それと……。


「センパイ、今、見ましたね?」

「なっ……」

「……先輩。男性なので一定の理解を示しますが……私の友達に変な目、向けないで貰えます?」


 一定の理解ってなんだ……底冷えするような声で示すようなものか?


「あぁ、うん。有坂晃成です。えっとじゃあ、双葉さん」

「は、はい」


 声をかけると頷いて、職員室の扉を開け放つ。先生方の目が一斉にこちらに向いて、そして。


「あっ、三人とも、こっちこっちー」


 と、布良先生が手招きしてる。


「……三人?」

「恵理さんもだそうで」

「はあ」 


 何だろうか、俺と双葉さんを呼び出す。アルバイト関連か? 急に駄目になったとか。いや、だが特に問題は起こして無い筈。


「いやー昼休みにごめんね。弁当は食べた?」

「はい」

「食べました」


 茶色がかった毛先がふわっと緩く丸まった髪。童顔ながらも……。


「センパイ、今チラッと見ましたね」

「えっ、先輩……えっ」


 南さんのからかうような目と、双葉さんの軽蔑するような目と脳を直接冷やしに来る声。

 南さんが言いたいのは恐らく、男子達が盛り上がる話題の一つであろう双丘のことだろう。どうでも良いが。


「有坂君と双葉さんに頼みたいことがあってね」


 そう言うと、南さんが布良先生の横に立つ。


「南さんの勉強を二人に見て欲しいんだよ」

「と、言いますと? 恵理さんの成績は決して悪くはない筈」

「そうだね。でも、足りないんだよ。二人のようにアルバイトを許可するには」

「はぁ……えっ」


 顔を見合わせる。つまり俺達に要求されていることは。


「全教科九割以上取らせろ、ってことですか」

「そういうことなんだよ」


 と、布良先生は何と言うか、春の朗らかな太陽を思わせる笑みを見せた。男女問わず人気の布良先生。まだ若いというか二十代前半というか、歴は浅いというか、とりあえずそんな感じの先生なのだが、その授業は非常にわかりやすい。

 そして、抜き打ちテストをやる時や急な課題を出す時も、こういう笑顔でさらっと言うのだ。


「……マジですか」


 期末試験まで、あと、二週間だぞ。


「もちろん、タダで、とは言わないよ。もし達成したらそうだねぇ、夏休みの宿題、及び労働レポートの免除、どうかな?」


 双葉さんと顔を見合わせる。


「……ありだな」

「魅力的ですね」


 勉強はするが、宿題は面倒。この感覚、理解できる人は多い筈だ。


「受けます」

「受けましょう」

「じゃ、よろしくねー」


 朗らかに笑う布良先生に見送られ職員室を出た瞬間、昼休みの終わりが近づいてくることを告げる予鈴が鳴る。


「とりあえず今日からだな」

「そうしましょう」 

「あ、あの、よろしくお願いします」

「うん」 


 階段を上がってく二人を見送って、自分の教室へ。とりあえず、今日やるべきことは、現状把握からだな。






 放課後、俺も双葉さんもバイトは休みだ。早速だが取り掛かることにする。一年生の教室、久々に来たな。


「あっ、先輩。こっちです」


 廊下を歩いていると、教科書を抱えた双葉さんが丁度教室に入るところだった。


「あぁ」


 そういえば一年A組って言ってたな。


「あっ、こーせいセンパイ。今日からお願いします」

「あぁ、うん。頑張ろう」

「はい! あ、うん、またねー」


 南さん、クラス全員と友達なのか? みんなから「また明日」とか「またね」とか言われてるぞ。俺とは住む世界が違うらしい。

 既に勉強する態勢は出来ていて、三人が顔を合わせてできるように机が配置されていた。


「あ、あれが噂の有坂先輩。思ったよりカッコいい」

「入試も満点、定期試験、連続全教科満点の記録継続中」

「毎回テストの最後に、有坂先輩に満点を取らせないための高難易度の問題が用意されているという」

「うっかり答え合わせ用の模範解答を失くしちゃった先生、有坂先輩の満点解答を模範解答代わりにしたこともあったとか」

「あ、それ聞いた。データ作り直すのめんどくさくて、それを印刷して配ったらしいよね」

「既に二年生の定期試験は、有坂先輩対策で難関私立大学並みの難易度になっているとか」


 なんて変な声が聞こえた。


「あれのどこまでが本当なんですかー?」

「入試満点で、全教科満点を続けてるのは本当。テストの最後に明らかに解かせる気のない問題があるのも本当。俺の答案が模範解答代わりに配られたのも本当だ。許可取りに来たからな。最後のはただの噂だな。学校側もある程度平均点はキープしなければいけないから」

「ぜ、全教科満点……答案とか、あったりしますか?」

「ん? あぁ、あるぞ」


 一年生の頃の奴から全部ファイリングして取ってある。


「ほ、ほんとだ……あれ、なんで全部、ボールペンで書いてあるんですか」

「不正対策だ。俺の答案を改竄しようとするやつが前いたからな」

「え、えぇ……そんなこと、あるんですか」

「あったな。だから許可を取って使ってる。さて、無駄話はここまでだ。始めよう」

「その前に良いですか。お二人はいつもどのように勉強しているのですか?」

「予習してちゃんと授業聞いて、家帰ったら復習するだけだな。大体授業で書いたノートの整理だ。一日二時間くらいで良い」

「私は……そうですね。そこにプラスして、参考書の問題を解いてます」

「……テスト期間は」

「復習だな。家にある参考書を適当に解く」

「私も同じです」

「な、なんでそんな余裕そうに」

「三年生の範囲まで大体予習終わってるからな」

「私も、二年生の範囲の半分までは、予習済みです」

「……マジですか」

「さて、えっと、南さん」

「恵理で良いですよー、こーせいセンパイっ」

「……恵理さん」

「えーりー。センパイにさん付けされるの、変な気分です」

「いや、双葉さんは双葉さんでさん付けしてるし」

「あーたーしーが、変な気分です」


 ニッと悪戯っぽく笑い、からかうような目を向けてくる。


「くっ、じゃあ、恵理。とりあえず中間の結果、出してもらえるかな」

「はい」


 事前に用意していたようで、すぐに出してくれる。


「どうです。赤点はありませんよ」


 と、言われて差し出された答案たち。確かに、七十点から八十点の間で収まっている。


「赤点って六十点未満だっけ」

「随分と鬼畜ですね。五十点未満ですよ」

「ちっがーうよ。四十点未満だよ! 全くもう、無縁だからって……」

「あぁ、無縁だな。バイトの許可貰いたいんだったら。赤点が無いことを誇りにするのはやめだな。俺と双葉さんにとっての赤点は、九十点未満だ。本気で君もバイトを始めたいというのなら、君は現状、全て赤点だ」


 隣で双葉さんも息を飲むのが聞こえた。


「赤点を回避するだけなら付け焼刃で十分だが、全教科九割以上、捨て教科も無し。となれば、二週間か……かなり厳しいな」

「うぅ」

「まぁ、やれるだけやってみるか。存外、死ぬ気でやればどうにかなることもある」

「は、はい」


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