第406話
安治はげんなりしながら訊いた。
「あの……見えてないんですか?」
「何を?」
「ヤツハシです」
「ヤツハシって何?」
世界一不毛なやりとりに思えた。気力を振り絞って会話を続ける。
「所長からのメールは見ましたよね?」
「もちろん! ヤツハシって名前に決めたって書かれてたわ」
「……それが何なのかは、わかってない?」
「ええ」
雪柳は曇りのない瞳で頷いた。素直そうな性格だ……ということだけはわかった。
「わかりました」
「何が?」
「もし俺が倒れたら、この掃除機で適当に俺の身体を吸ってください。多分、回復します」
「今あなたがしていたのと同じようにすればいいのね」
それはちゃんと見ていたのか、と少しだけ感心する。
まだ紙パックには余裕があるようだった。二人目、三人目と同時に近くの椅子を綺麗にし、そこに座らせてやるようタナトスと雪柳に指示をする。
人の面倒を見るのには慣れているのか、てきぱきと動きながら雪柳が口を開く。
「さっき聞いたの、忘れちゃったわ」
「何ですか」
「お嬢ちゃんの名前。何て呼ばれてたかしら。あたし、所長のご尊顔に見惚れてたから」
「――俺の名前ですか? 安治です」
「あら、可愛い」
「――そうですか?」
可愛くはないだろう、と内心で反論する。しかし雪柳はにこにこと続けた。
「ええ。割と最近流行ってる名前よね。売れっ子に多いイメージだわ。美人に多い名前」
社交辞令だろうが、褒めるニュアンスなのは伝わってきた。しかし褒められても――だ。
「俺、娘じゃないですよ」
見た目と話し方でわからないのだろうか。言うと、雪柳は目をぱちくりさせて安治を上から下まで眺めた。
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