ヤツハシ

第396話

「ヤツハシに捕まるとどうなっちゃうの?」

「おそらく、極端にネガティブな心境になる」

「え、それだけ?」

「ボクが見た範囲ではな」

 ――なんだ、それだけなら。

 ほっとしかけたところに所長が低い声で呟く。

「発作的に自死を試みた例が七件、暴れたり他人に攻撃を加えたりした例が四件報告されているわ、今のところ」

「…………」

「一旦被害を受けた後、元の状態まで回復できるかも不明ね」

 ぞっとした。なるほど、ヤツハシ自体は駆除できたとしても、被害者がその後どうなるかがまだ予測できないというわけか。

「あの、これを作った人って……」

「駄目よ。とっくにやられてるわ」

「そんな、無責任な」

 思わず責める口調になる。所長はわずかに顔を顰めた。

「研究者を悪く言わないで。成功するときもあれば失敗するときもある。失敗を避けようとしたら何も生み出せないわ」

「すみません」

 慌てて謝る。所長は穏やかに続けた。

「優秀な解析チームが動いているから、解決策が見つかるのは時間の問題よ」

「でも」

 と思わず言ったたま子が、所長を前に言葉を選ぶ。

「動ける人ってどれくらい残っているんですか」 

「あ、そうですよ。図書室にいた人、ほぼ全員やられてましたよ。遭遇したら終わりなんじゃ……」

 所長は首を横に振る。

「そうでもないのよ。図書室にいた人も四分の一は無事。あなたが見たときにはみんな逃げたり隠れたりした後だったのよ」

「あそっか。俺たち奥の方にいたから……」

「今のところ、研究者の半数は無事みたい」

 所長は憂う風もなく、穏やかな笑みを口元に浮かべている。安治は「今のところ」という表現が気になってしかたなかった。その数は時間を追うごとに減るのでは。

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