第393話
――いや、俺は平気じゃない。
慌てて否定する。所長は「見える」ではなく「平気」と言った。それはたま子のことだろう。きっとそうに違いない。
一秒後、安治とたま子は同時に「タナトス!」と叫んだ。
タナトスは、デスクで突っ伏して真っ黒になっているみち子に触ろうとしたのだ。
半透明の影がこれだけ黒く見えるということは、一体何重に重なっているのかもわからない。みち子に取り憑くことで影が強度を増しているようにも感じられる。触ればたちまち取り込まれてしまうのではないか。安治は止めようとタナトスに駆け寄った。
間に合わなかった。タナトスの手がみち子の肩に触れた。気づいた影が嬉しそうにタナトスに抱きつく。
「みち子、具合悪い?」
タナトスの声はいつも通りだった。「心配する」というコマンドを復習するように、気遣わしげにそっと肩を揺する。
たま子が先に、タナトスの腕を掴んで引き離した。
影はすんなりと新たな獲物を離した。離したくなくても離さざるを得ない、残念そうな雰囲気を安治は感じ取った。
――やっぱり。
驚きつつ納得する。影はタナトスを捕獲できないのだ。
初めて目の当たりにしたたま子は、意外そうに声を上げながらタナトスを見る。
「お前、なんで……」
一方でタナトスはきょとんとしている。
それもそうだ――安治はタナトスが見ているだろう景色を想像して、可笑しくなった。
タナトスには影が見えない。天井や壁で蠢いている不気味な染みも、黒い水溜まりで手を振っている人の形も、みち子たち所員が黒く塗りつぶされているのも。ただ具合悪そうに倒れ込んでいる人たちが見えているだけだ。
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