第392話

「あの、所長権限で」

 当の所長は安治たちとは反対側、部屋の奥から音もなく現れた。気配に気づいて振り返ったたま子が軽く仰け反る。

「平気なのはあなただけのようね」

 言われてたま子が頭を掻く。

「ご覧の通りです」

 みち子は自分のデスクで、戸田山はソファで、他にも二人の人物が、複数の影に取り憑かれて倒れ込んでいた。最後のあがきのような小さな呻き声と、呪詛のようなぶつぶつ言う声がそれぞれから上がっている。

 図書室では他人を見捨てることができたが、知り合いとなるとさすがに助けないと、という感情がわいた。しかし触れば自分も取り込まれるだけなのはわかっている。

 前方の視界に気を取られていた安治は、背後から手を伸ばす影の存在に気づかなかった。影が安治の肩に触れる寸前に、たま子が鋭い声を上げた。

「おい、後ろ」

 瞬時に意味を悟った安治は、ひやっとして前方にステップを踏む。振り返って初めて、天井も壁も影が密集して真っ黒になっているのに気づいた。

「う、うわー、大丈夫、ここ」

 鳥肌が立つ。よくこんなところにいられたものだ、とたま子の神経の図太さを思う。

 たま子は険しい顔で息を吐いた。

「ここも何も、もうどこもこんな感じだぞ。逃げるところなんてない」

 それから少し声を明るくした。

「お前、見えるんだな。そうだろうとは思ったが」

「え、あ――たまちゃんも」

 やりとりを聞いていた所長が小さく頷いて呟く。

「シラクサは平気な子が多いみたいね」

 安治は固まった。その発言は――安治もシラクサだと言っているのだろうか?

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