第390話

 紅茶は最初、宙に浮いていた。直後にティーテーブルが現れ、紅茶が着地すると同時にアフタヌーンティースタンドが現れた。数種類のケーキにスコーン、クッキーにフルーツが色とりどりに盛りつけられている。

「あの、そんなに要りませんから……」

 椅子に座りつつ遠慮がちに断る。食べきれない分が無駄になってしまう――。いや、ならないのだろうか。空中から現れたものなのだから。

「いいじゃないの。太らないわよ」

「はあ。じゃあ、いただきます……」

 折角なので紅茶を手に取りながら、さり気なく所長の顔を見る。星の光と机に置かれたランプに照らされた所長は、やはり北条さんとよく似ていた。簡潔に言って、手入れの悪い北条さんだ。太って、髪をぼさぼさに伸ばして、しばらく洗っていないだろう白衣を着ている。

 所長は四〇代半ば、北条さんは三〇代前半といったところか。

「北条さんって、所長の弟ですか?」

 訊いていいか少し迷い、思い切って訊く。所長なら怒りはしないだろう。

「いいえ、向こうが兄」

「え?」

 驚いたのは失礼だったと安治が気づいたのは少し後だった。所長は気にせず柔らかい口調で続ける。

「若く見えるでしょう?」

 その一言で何となく納得できた。所長が老けているのではなく、北条さんが若作りなのだ。この研究所でなら見た目を一〇歳や二〇歳若返らせるのは簡単に違いない。

 他にも質問したいことはいくらでも思いついた。けれど顎に手を当ててアバカスの画面を睨んでいる所長に、それ以上の時間の無駄遣いをさせるわけにはいかない気がした。

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