第386話

 ――そっか、見えないんだ。

 落胆すると同時に、怒りがわいた。タナトスには見えないし、触られても影響がない。片やこっちは、自分を犠牲にしてでも必死に守ろうとしていたというのに。人が困っているときには何もしてくれないのか。

 先の影は膝の上まで這い上がり、動けない間に別の一体が前方から両手を振って抱きついてくる。さらに後ろからも一体が。

 ――理不尽だ。

 腹の底からふつふつと黒い感情がわき上がる。

 思えばタナトスなんて誰の役にも立っていない。身体は大きいのに、中身は人に面倒を見てもらうだけの幼児だ。厄介なだけで可愛くも何ともない。そんなものを守ろうとして、自分は馬鹿ではなかろうか。

 そうだ、馬鹿だ。そんなのとっくにわかっている。自分は何もできない。特技もないし熱意もない。頭は悪いし人に迷惑はかけるし、誰から必要とされているわけでもない。それなのに未だに生き続けているなんて、罪以外の何ものでもない――。

「安治」

 ぐいと腕を引っ張られた。二、三歩よろめいてはっとする。

 ――今、急に、変な気分になった?

 振り返ると影が無念そうに揺れていた。先ほどタナトスが振り落としたときと同じ反応だ。

 ――なんで?

 他の人は一旦取り憑かれると、鳥もちにでも包まれたように動けなくなり床に引き倒されていくというのに、何故簡単に抜け出せたのだろう。

 ――タナトスの力?

 目の前の無垢な顔を見る。今し方感じた怒りはもう消えていた。爆発的に燃え上がった負の感情は幻だったかのようだ。

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