第384話

 安治は驚いて瞬きをした。タナトスの身体には影が纏わりついている。しかし本人には感覚がないようで、平然と安治の隣に戻ってきた。

 影はタナトスが歩き出すと、振り落とされる格好で離れていった。くにゃくにゃした頭と腕の動きが残念がっているようにも、好意的に見送っているようにも見える。

 ――平気なんだ?

 不思議に思いつつ辺りを見渡す。

 平気なのはタナトスの特異体質のためだということが、一秒もせずに理解できた。他の人もエンケパロスもやはり、少しも平気ではない。

 何故だろうと呑気に考え込む余裕はなかった。それよりも、目の当たりにした光景に気持ちが落ち込む。

 ――ここを通り抜けるのか……。

 まだ出口までは数十メートルある。その間に利用客、黒服、エンケパロスが点々と、黒い塊になって倒れていた。

 立っている人は一人もいない。椅子に座った人も、その体勢のまま頭まで影に包み込まれている。そして思い思いに、呻き声や泣き声や喚き声を上げていた。

 その声とスピーカーから流れ続ける不吉な音楽が相まって、陰気なことこの上ない。ホラー映画の世界にでも入り込んでしまったようだ。

 巨大なアメーバ状の影は天井の六割ほどに広がっていた。壁も同じく。床にはまだ余地があるのは、影が人に向かって移動するからだろう。

 通り抜けるのに足場は問題なさそうだ。気をつけるべきは天井から垂れてくるほうだなと考え、出口までのルートをシミュレーションする。

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