第383話

「きゃッ」

 幼い子どものような悲鳴が上がった。安治はわずかに動揺しつつも、即座にその手を叩き落として励ます。

「大丈夫、行くよ」

 引っ張られて歩きながら、タナトスは戸惑い気味に言った。

「助けなくて良い?」

 安治は答えなかった。

 タナトスはもう一度訊いた。

「助けなくて良い?」

 安治は少し腹を立てて無視した。今は理屈をこねている場合ではない。

 書棚ドミノの間を進み、やっと受付カウンターが視界に入るところまで来たときだった。

「あッ」

 安治はひやっとしてタナトスを強く引き寄せた。タナトスの足が、床に広がった影の水溜まりを踏んだのだ。

 反動でタナトスがよろける。それを抱き留める安治もたたらを踏んだ。その歩みを止めたわずかな隙に、壁から身を乗り出していた影がタナトスの腰に抱きついた。

 まずいと焦った安治は、反射的に自分だけは影から飛び退き、タナトスの手をぐいと引いた。そのせいでバランスを崩したタナトスが床に膝をついた。

 すぐさま膝の下に黒い水溜まりが広がる。そこから立ち上がる影が、包み込むようにタナトスの腰や背中に手を伸ばす。

「早く、立ち上がって!」

 冷や汗をかきながら叫ぶ。

 タナトスは難なく立ち上がった。転んで乱れた長い髪を邪魔そうに軽く整えてから、頬を膨らませて安治を睨む。

「安治、乱暴!」

 ぷんすかという表現がぴったりの動きだった。

「――え?」

 責められたほうはぎょっとする。

 ――なんで動けんの?

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