第382話

 助けてあげられるかもしれない、助けてあげないと――という考えは安治の頭には浮かばなかった。

 安治には仕事がある。タナトスの教育係だ。教育係が教育する対象を守るのは、言うまでもない大前提だろう。タナトスに危険が及んでいる瞬間に、他の人を助けている余裕などない。

 何故なら安治は決して強くないのだから。他人どころか、自分一人守りきれる自信もない。

 最悪、自分を犠牲にしてもタナトスだけは守らなければ。どこが安全なのかわからないこの状況では、責任者であるみち子か所長にタナトスを無事に引き渡すのが自分の仕事だ。そう思った。

 このとき、左手小指の指輪がチカッと光ったのに安治は気づかなかった。

「安治、どこ行く?」

 不安そうな声で訊かれる。影に抱きつかれた人が床に座り込み、あるいは書棚やテーブルに縋りついて、泣き声や喚き声を上げている間を通り抜けることに恐怖を感じたのだろう。足を止めずに言う。

「タナトス、このさ、影みたいなの見える?」

「影?」

「人に抱きついてるやつ」

「――ない」

「俺には見えるんだよ。だから大丈夫。見えれば避けられるんだから」

 断言すると、タナトスは口を閉じた。しかし不安が払拭できたわけではないらしく、水色の瞳で子犬のように見つめてくる。

「大丈夫だから」

 タナトスと自分に呟き、出口を目指して進む。

「助けて……」

 棚の間の椅子に縋りついていた老齢の男性が手を伸ばしていた。その手がちょうど通りかかったタナトスの手を掴む。

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