第381話

 天井に半透明の黒い染みが広がっている。それは液体のように滴を垂らしていた。ただし水とは違う。もっと粘着性の、あるいは重力を無視したゆったりした動きだ。

 天井から長く伸びた液体が床に届いて、床に黒い水溜まりを作る。それが人の上半身の形になって立ち上がり、頭と腕を振ってくにゃくにゃと動き出す。そして近くにいる人に寄って行っては抱きつこうとする。

 その現象が至るところで起きていた。

 ――きも。

 怖気がして、タナトスの腕を掴んだ手に力が入る。そこで気がついた。タナトスに驚いている様子がない。

 顔を見る。タナトスの目はきょろきょろするばかりで、特定の何かに向けられてはいない。何が起きているのか、まだ把握に努めている段階のようだ。

 黒服やエンケパロスも同じだった。身体に触られている感触はあるらしく、必死に振り払おうとしている。しかし目が相手を捉えていない。

 ――見えてないんだ。

 反射的に安治の頭に疑問が浮かんだ。何故自分は見えるようになったのだろう――と。

 影はいたるところでくにゃくにゃと腕を振っている。しかし通る余地のある通路はまだたくさん残されていた。影の動きはそれほど速くない。

 これなら間を縫って移動できるのでは。そう思った途端に自然と身体が動いた。

「すみません、みち子班長の部屋に向かいます」

 黒服に一声かけ、タナトスの腕を引いて歩き出す。黒服は「おい」と静止の声を上げたが、無視した。彼は既に肩までを一〇体ほどの影に包み込まれて動けなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る