第333話

 おじさんは続けた。

「ここには不安がありません」

 ――不安?

 安治は心の中で首を傾げつつ反論する。

「不安もないけど、あるものもありませんよね」

「あるものとは?」

「全部です。何もないじゃないですか」

「あなたには何が見えないのですか?」

「何がって……地面も空もないし、あと――何にも」

 おじさんは可笑しそうに笑った。

「あなたにはないものが見えるんですね」

「――――」

 小馬鹿にされているのを感じ、返答を控える。おじさんは、安治がむっとしたのに気づいて表情を戻した。

「あなたがあると思っている世界は、ないがある世界なんですよ」

「ないがある?」

 ――また変な言い方を。

「ないがあるからこそあることに気づき、あると気づくからこそなくなる不安を覚えるのです」

 声と同時に、安治の脳裏に映像が浮かんだ。まるでおじさんがイメージしたものがそのまま映し出されたかのようだ。見えるままを言語化する。

「友達に遊びに誘われたけど、金がないからって断った。でも実は、今日、明日の夕飯を買うのに十分なくらいのお金は持っている。そのお金で遊びに行こうと思えば行ける。でも使ってなくなることが不安なので誘いを断った。実際にはあるのに、ないって言った」

 おじさんは演技めいた仕草で頷く。

「最初から一円も持っていなければ、なくなることを不安がったりしません。あるからこそ、それを失う不安も同時に持ってしまう」

「……よくありますね、そういうこと」

 今度は自分の記憶だろう、お金以外の経験がいくつも思い出された。

 明日の面接、寝坊して間に合わなかったらどうしよう。このまま仕事が見つからなくて家賃を払えなくなったらどうしよう。混んでいる電車内で痴漢と間違われたらどうしよう。留守の間に空き巣に入られたらどうしよう――。

 まだ起きていないことに対して不安がわくのなんてしょっちゅうだ。その大半は結局実現していない。

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