第308話

 不意のできごとに安治は間の抜けた、きょとんとした顔になった。おりょうが見返して微笑む。

 しばらくそのままでいるうちに気持ちが落ち着いた。それから手を握ったままシャワーを浴び、着替えを済ませた。手を離したのはトイレの間だけだ。

 手を離している間も、実際の左腕を視界に入れないようにして、おりょうと手を繋いでいるイメージの維持を試みた。

 しかし偽物の左手は勝手に動く。意図せず顔や身体に触れられると、途端に虫唾が走るような嫌悪感に襲われてイメージが霧散する。隣に学生時代の友人がいてちょっかいを出してくるのだ――と思おうとしてもうまくいかない。どうしても手を離さなければならないときは、ベルトで腰に縛りつけておこうかとまで思った。

 逆に考えれば、それで済む話だ。偽物の左手は縛りつけたところで痛むこともない。固定しておいて視界に入れなければいいだけの話ではないか――そう考える心の余裕も生まれた。

 唐揚げと味噌汁の他、ふろふき大根、小アジの南蛮漬け、ヒジキの煮物、五目豆、こんにゃくのおかか炒めが並ぶ食卓に着いたときも、手を繋いだままだった。

 これには少し悩んだ。おりょうも右利きだから、手を繋いでいると利き手が使えない。ここは自分が食べさせてあげるべきなのだろうか――?

 その場合、「あーん」とか言うのだろうか――。

 光景を想像して一人で照れる。その間におりょうは、左手で器用にフォークとスプーンを操って問題なく食べていた。

 その後はリビングでテレビを観て過ごし、胃がこなれたところで寝室に移動した。

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