第307話

「でしたらその前に、食事をしたりシャワーを浴びたりなさってください。そのほうが精神的にも肉体的にもよろしいですから」

 宥めるような諭すような口調で言われる。それに対してどこか駄々をこねるような返答になった。

「……動きたくない……」

「お手伝いしますから。今、唐揚げと味噌汁を作っていたところなんです。身体をすっきりさせて食べましょう。気分が変わりますよ」

 元気づけようとする言葉が安治の胸には響かなかった。耳には入っても、左手の不快感という強烈な情報が脳を支配していて、それ以外が意味をなさない。

 考えられるのは一つのことだけだ。

「……腕がなくなれば……」

 効果はないかもしれない。しかし実行してみるまでは、効果があるかどうかもわからない。試す価値はあるだろう。まずは試してみるべきだ。試してみなければ、効果がないとも判断できない――。

「ではどうぞ、ご自分で切り落としてください」

 突き放された。

 はっとする。怒らせてしまった。慌てて顔を見る。

 おりょうは左隣に座ったまま視線を落としていた。視線を辿った先に何があるでもない。なのに何か不思議な感覚を得た。急に不快感が和らいだような。

「…………?」

 和らいだどころか、すっかり治った気さえする。

 そんなはずはない。何が起きているのかと数秒考えて、やっと頭が回った。

 おりょうの手が、安治の偽物の左手を握っている。

 ――ああ。

 視界と感覚が一致した。だから違和感がないのだ。左肩についている誰のものだか知らない腕が、まるで自分の腕のように感じられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る