第291話

 しかしこの一件は黙っていられなかった。

 この左腕は自分のものではない。

 それだけは他の人にも伝えなければ――と強く思った。

「研究室に行ってくる」

 それだけ告げて、降りたばかりのエレベーターに逆戻りする。すかさずおりょうも乗り込んだ。

「班長よりも所長に報告されたほうが良いと思います」

「そっか、じゃあ――」

 行き先をコールしようとして喉が詰まる。左手が勝手にパネルに触ろうとしたのだ。

 慌ててその動きを阻止する。

「所長がいるところへお願いします」

 代わりにおりょうが目的地を告げた。

 着くまでの間、安治はずっと左腕を壁に押しつけて動きを封じていた。強めに圧迫しても痛みは感じない。代わりに自由な左腕の感覚だけがある。どこの世界に行ったのか知らないが、肩も肘も手首も指も自在に動かせ、どこに伸ばしても触るものは何もなかった。

「気持ち悪い」

 思わず声に出る。

「どのような状態なのですか?」

「……うーん」

 訊かれても答えられない。説明が難しいわけではなく、気を抜くと左手が勝手に動くので、会話に意識を向けられないのだ。

 エレベーターが案内したのは結局、みち子の研究室だった。入るとみち子、戸田山、所長の三人が待っていた。

「どうなったの?」

 一から説明する前に所長のほうから問いかけられる。

「腕が――左手が、吸い込まれたんです」

 不快感に耐えながら端的に答える。

「それは知ってるんだけど」

 所長は目線をみち子に向けた。みち子はアバカスを掲げて、流れている映像を安治にも見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る