第290話
「違う!」
叫んで右手で左手を抑える。左手はあっさり叩き落とされて床にぶつかった。
「…………」
鳥肌が立った。左手の感覚がない。いや、感覚はある。自分の左手はある。しかし、感覚と光景が一致していない。
今起きたことをゆっくり思い出してみる。――右手が左手を叩いた。叩いたほうの感覚は? ――ある。しかし叩かれたほうの感覚は――ない。
今現在、触れているはずの床の感触も感じていない。
左手の指を動かしてみる。
まったく当たり前に、今まで通り自由自在に動かせている感覚がある。ところが目を遣ると、そこにある左手はぴくりとも動いていない。
いや、動いた。感覚と無関係に、駄々をこねるように指先で床を叩いている。
――どういうこと?
目眩がした。
まるで――本当の左手は別の世界に行ってしまい、代わりに誰かの腕がくっついている感じだ。
――気持ち悪い。
胸にむかつきを覚えて右手で押さえる。その隙に左手が勝手に動いておりょうを触ろうとした。
「やめろ!」
慌てて右手で制止する。
安治は怒りを覚えた。母親の嫌な言動を思い出したときと同じくらい腹が立った。
安治はいつも自分が感じていることに自信がない。この研究所で目覚めてからというもの、おかしいと感じる点はいろいろある。周囲の人間が真実を語っているとは信じ切れない。
でもそれを相手にぶちまけて議論する気にはなれないのは、結局自分が間違っているのかもしれないし、間違っていなくても自分が我慢すれば済む話だ――と思っているからだ。自分の脆弱な主張なんて、声高どころか普通の声量でも発信するつもりはない。
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