第281話

 そこで疑問を思いついた。

「あのさ、ここで使われてる言葉って――」

「うん?」

 何語なの? と訊こうとして詰まった。「例えばアレとか」と具体例を挙げようとして、一つも出てこなかったのだ。

「ギリシア語だ」

 少し待ってから自発的にたま子が答えた。

「あ――うん」

「オイコノモスとかな。エンケパロスとかアントロポスとか――だろ?」

「ああ、それ。それを訊こうと――」

「ソポスとかな」

 軽く笑ったたま子の視線が安治の左手小指に向かう。

 ――ソポス?

 何だっけ、と考えて思い出す。着けているではないか。

「あ、そうだこれ、訊こうと思ってたんだ。何なの? たまに光るんだけど」

「ああ、そのためのものだ」

「そのため?」

「そのためだ」

 それ以上は答える気がないというように、笑ったまま背を向ける。

 エレベーターが到着するまでの間、安治は銀色の細い指輪を眺めていた。何も変化は起きなかった。

 食堂では待ちぼうけを食らったタナトスが、手持ち無沙汰に窓の外を眺めていた。隣にはエロスがいるものの、会話をしている様子はない。

 近づきながら思わず声が出る。

「エロスちゃん、おはよう。今日も……可愛いね」

 可愛い格好だねと言いかけて軌道修正する。今日のエロスは長い黒髪を下ろし、後頭部に赤い大きなリボンをつけていた。着ているのも赤いワンピースで、猫娘のようだ。元から中学生くらいなのが更に幼く見える。

 ――これで『姉』なんだよな。

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