第272話
理解しないわけにはいかなかった。母親は、根拠のない差別意識から水商売の女性を毛嫌いしているわけではない。理由があって憎んでいるのだ。
――水商売の女だなんて!
――わかったよ。わかってるから、許してよ、母さん。
鼓動がどくどく言っていた。おりょうのことを知れば母親が悲しむ――。
母親を悲しませたくない感情が自分の中にあることを、安治は認めざるを得なかった。
「…………」
呼吸が荒くなっているのに気づく。自分の内側を見るように目を閉じて口を押さえ、意識を集中して思考を強制停止する。
――考えなくていい、考えなくていい、考えなくていい、考えなくていい、考えなくていい……。
「どうぞ」
香り高い湯気の立つコーヒーが置かれたとき、安治の気持ちはどうにか回復していた。カップを置く手に素早く自分の手を重ねて、恋人を掴まえる。
「ありがと。……ごめんね、紅茶も美味しいんだけど」
詫びつつ繊細な手を引っ張る。おりょうは大袈裟な反応はせず、勢いに任せて安治の上に倒れかかった。無邪気なじゃれあいを装っておりょうを膝に乗せる。見つめ合ったりはせず、いたずらでもするように頬で頬を撫でて、軽く唇を重ねる。
――どうせ、偽物の記憶なんだから。
シャンプーの香りと柔らかな感触に意識を集めつつ、意図的に自嘲する。
自分ではない誰かが体験した記憶に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しい。ゲームを現実だと錯覚するようなものだ。
自分にそう言い聞かせる。
その記憶が本物なのか偽物なのか、今の安治には判断がつかない。ただわかっていることは一つ、記憶は記憶であって、今目の前で起きている現実ではないという点だ。
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