第271話


 ――これだから女は。

 と、出かかるのを飲み込んだ。澄子が悲しんでいるのが安治にとっては受け止めがたいほど辛く、反動で、自分を辛い気分にさせる澄子に嫌悪感がわいていた。

 ――そんなつまらない、どうでもいい話はやめてくれ。

 そう言ってしまうところだった。

 澄子は鼻を啜るように一つ大きく息を吸うと、怒りを帯びた涙声で、

 ――あのときも。

 と言った。

 その瞬間、安治の中で「あのとき」の記憶が蘇った。

 澄子がソファで弟を抱いている。リビングの光景だ。ストーブが点いていて、澄子が着ているのはノルディック柄のセーター。

 母親が泣き声で喚いた。

 ――水商売の女だなんて!

 澄子は怯えて、必死に涙を堪えながら弟をあやしている。

 馬鹿な長姉は弟妹などかまうことなく、母親以上に被害者ぶった泣き声を上げている。

 安治も泣いていた。

 姉弟が泣く理由は、半狂乱の母親が怖いからではない。母親の傷ついた悲しみに共鳴してしまったのだ。

 母親は、夫の浮気相手を知って手がつけられない状態だった。テーブルを叩き、灰皿を床に投げつけ、壁を蹴りつける。死んでやると叫んでキッチンに刃物を取りに行く。それを祖母と叔母が必死に宥めようとしている――。

 思い出して以降、それは安治にとって嫌いな記憶の上位に入った。安治を傷つけることしかしない大嫌いな母親に、多少なりとも同情を覚えてしまうのが特に嫌だった。

 大人になった今なら事情がわかる。父は、よりによって妻の妊娠中・出産直後に浮気をしていたのだ。そのとき母は高齢出産で、母体にも胎児にも不安を抱えていたというのに。

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