第270話


「はい」

 おりょうはきっと安治の異変に勘づいただろう。しかし何も態度には出さず、従順なメイドのようにキッチンに立った。

 ――水商売の女だなんて!

 母親が喚き続ける頭をそっと抑える。

 ――わかったよ、うるさいから黙ってよ。

 記憶に対して語りかける。

 もう古い――子どもの頃の記憶だ。弟が赤ん坊だったから、安治が小学校に上がる前に違いない。

 安治は長らくその記憶を忘れていた。母親が水商売の女性を毛嫌いするのは、単に職業差別意識だと思っていた。

 視野の狭い人だから、自分で勝手に作り上げたイメージで嫌っているのだ、あるいは性に対するコンプレックスでもあるのかもしれない――と軽蔑していた。

 違うと気づいたのはわりと最近、大学に入ってからのことだ。

 澄子からの電話で父親の浮気を知った。

 ――お母さん、すごく怒ってるの……。

 そう言った澄子の声はあまりに悲しそうで、そばにいてやれないことに胸が苦しくなった。

 澄子の悲しみの理由は、母親が傷つき悲しんでいるからだった。

 ――お父さん、また……。

 父親の浮気の話自体は安治にとってはどうでもよく、話半分で聞いていた。安治が嫌なのは母親が癇癪を起こすことと、それによって澄子が悲しむことで、その原因となる父親の浮気にはそれほど怒りを覚えたことがない。

 ――気にしすぎなんだよ。

 口に出して言ってはいけないのはわかっている。だから電話の間中、喉まで出かかる言葉を何度も飲み込んだ。

 父親が浮気をするのなんてもうわかりきったことだ。それをいちいち騒ぎ立てて、二人とも馬鹿じゃないだろうか。成長するってことを知らないのか。

 そう、説教したいくらいだった。

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