第269話


「ええとじゃあ、サンダーフラッシュ五郎とかでも?」

「はい、そういう感じの方はいらっしゃいます」

 ――いるのか。

 不意に笑いがこみ上げた。くっと声を漏らすと、おりょうも端正な顔で華やかに微笑んだ。

 その顔を見て、さっき聞いたことを思い出す。

「……おりょうちゃんって、おりょうが本名――みたいなもの――なわけ?」

「はい」

 また一つ自分の思い込みに気づかされる。『おりょう』なんて本名はないと勝手に決めつけていた。

「でも、何で? てっきり、りょうナントカって名前なのかと思ってたよ」

「親がつけた名前が理世なので」

「あ――そうなんだ。理世ちゃん? 可愛いね」

 急にほっとした。たかが名前ではあるが、リョウスケよりはリヨのほうがいい。

「あ、あと、何だっけ? もう一個、全然違う名前……」

「すず香です」

「それ。何で?」

「鳥居町で働いていたときの名前です。未だにそう呼ばれるので」

 ――鳥居町?

 何だったっけ――と考えて大きな赤い鳥居を思い出す。あそこは確か、花街――。

「…………」

 頭から血の気が引いた。咄嗟に返す言葉が思いつかず、ごまかすように紅茶のカップに手を伸ばす。うまく掴み損ねてカチャカチャと音が立った。

 ――落ち着け。

 内心で自分を叱咤する。

 何を動揺する必要があるのか。ただの接客業ではないか。自分は職業差別をするような人間ではないだろう――。

 ――水商売の女だなんて!

 母親の金切り声が頭の中で響く。つんと突き刺さるような感覚がして意識が遠のく。

 ――あ、ダメだ。

 安治はすぐに降参した。

「あの、ごめん……コーヒー飲みたいな。淹れてもらえる?」

 表情を隠すために言う。今朝はコーヒーが用意されていない。頼めばおりょうはマシンのセットから始めることになる。

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