第268話

 安治は理解できたつもりだった。しかしおりょうはやはり、一瞬の半分ほどきょとんとした。

「いえ、登録名は複数でもかまいません。私は『おりょう』、『すず』、『理世りよ』で登録しています」

「…………」

 三秒ほど思考が空回りした。そして気づいたのは、『人の名前は一つ』という思い込みが自分の中にあるということだった。

「あの、じゃあ、俺の登録名って?」

「『安治』です」

「名字は?」

「ありません」

 名字がないってこともあるんだ? ――と言おうとしてやめる。必ず名字があるというのもまた思い込みの一つではないか。

「なるほど」

 納得がいった。何故誰もが安治を名前で呼ぶのか。他の人も名前だけを名乗るのか。このマチでは名字というものが存在しない――。

「いや?」

 そんなことはない。

「何か?」

「じゃあ、あの、北条さんって? 名字じゃないの?」

 おりょうは軽く宙を仰いでから答えた。

「ああ、そうですね。あの方はフルネームで登録されています」

「え、何て言うの?」

「それは……ご本人に訊いてください。私が勝手に教えるわけには」

「そっか。じゃあとにかく、名字もある人もいるってことだね」

「あるというより、名字だけの人もいます。皆さん、呼ばれたい名前を登録するわけですから」

「呼ばれたい名前……何でもいいの?」

「はい。ただしファミリーでは同じ発音の名前がないようにしています。既に登録されているのと同じ名前を登録したい場合は、名字をつけたりミドルネームを入れたりして変えます。ですからたまにおかしな名前の方もいますね。それを踏まえてエレベーターの名前は決定されています」

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