第258話

 でも――他人には、いるだけで場を和ませる愛すべきヤギに見えているわけで、それはやはり救いに感じた。

 いいではないか、偽物だって。

「まあ私も、今のお前のほうがましだな」

「メ」

 ――でしょ?

 言った直後、エロスは風のような速さでいなくなった。

 何かと思えば、タナトスが壁から落ちたらしい。視線が追いついたときには傍らで膝をついている姿があった。

 大した高さではない上に厚いマットまで敷かれているのに、過保護なことだ。当然怪我などしていないタナトスは、やや迷惑そうな顔をしている。

 結局そのままエロスが連れ帰ると主張したので、その日はお開きになった。

 別れ際、一度は背を向けたエロスが思い出したように呼び止めた。

「安治」

「メ?」

 呼び止めておきながら、しばし考え込んで一人で呟く。

「――まあ、その身体なら大丈夫か……」

 ――何が?

 数秒後、考えがまとまったらしく切り出す。

「親切で言うんだが……いつもと違うものに遭遇したら、迂闊に近づくなよ」

「メェ?」

 いつもと言われても、まだそれほどこの研究所に慣れていない。

「例えば……不自然なところに置かれている冷蔵庫とかな」

「メ……」

 ――なんでそれを?

 聞き返した途端にエロスの顔色が変わった。

「見たのか?」

「……メェ」

「絶対に開けるんじゃないぞ」

「…………」

 ――開けたらどうなるの?

 ただごとではない雰囲気に気圧されながら問う。

「いいから開けるな。開けたら……取り返しがつかなくなっても知らないからな」

 それだけ言うと、タナトスを促してジムを出て行った。

 ――そんな中途半端に警告されても。

 もやっとした気持ちと先の見えない不安に戸惑いつつ、しばらくして安治も後を追う。 通路に出たとき、二人の姿は既になかった。少し歩いてエレベーターまで行き、鼻を当てる。

 待ち時間もなく静かに扉が開く。当たり前に乗り込み、扉が閉まりかけたところで安治はぎょっとした。

 エレベーターの奥に、大きな黒い冷蔵庫が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る