第257話

 午後も図書室へ行き、今度はタナトスに付き合って古い名作アニメを観た後、眠くなってきたところで建物内にあるボルダリングジムへ行った。

 ヤギなので岩場を登るのは得意だ。人間のようにわざわざ専用の靴を履く必要もない。ほぼ垂直の壁を四本の脚で上下左右自在に動き回る。

 居合わせた人たちが面白そうに見てくるのもまた楽しい。運動をしているだけで周囲に娯楽を提供できるとは。

 一方でわざわざジャージに着替えて長い髪を三つ編みにしたタナトスは、前傾斜の壁をすいすい登っていた。自重を感じさせない滑らかな動きで、ヤモリのように安定感がある。

「メェ……」

 ――意外と運動神経良いんだな。

 感心しつつ眺める。庭園で追いかけっこをしたときも足が速かった。マイペースな性格とどうもイメージが合わない。

「お前ら旧式の人間より優秀に作られてるからな」

 今日はお嬢様風の黒いワンピースを着たエロスが皮肉な口調で言う。タナトスが着替えのため部屋に戻った際、一緒について来たのだ。

「メェ」

 ――今はヤギだけどね。

 と混ぜっ返す。エロスは重ねて皮肉な眼差しを寄越した。

「どの辺がだ? 本当のヤギは、そんな風に考え事をしないと思うがな」

「……メェ?」

 ――なんでエロスちゃんは俺の言葉がわかるの?

「さあな。旧式の人間じゃないからだろ」

「メェ」

 ――タナトスには通じないのに。

 エロスは一瞬考えてから返した。

「通じないんじゃなくて、お前がヤギであったほうが良いっていう判断なんじゃないか?」

「メ?」

 ――は?

「相手が人間だと面倒だろ。相手が何を考えているのか考えないといけない。言葉が通じるからこそ気を遣う。相手がヤギならその面倒がない」

「メェ……」

 ――ああ……。

 安治は頷いた。実際タナトスがどうなのかは知らない。しかし自分は確かにそうだな、と思った。言葉が通じないからこそ相手を説得する努力をしなくていい。気を遣わなくていい。

 だからヤギは楽なのだ。

「でもお前はただの人間だ」

 エロスの容赦ない一言に頷く。結局自分は本当のヤギではない――ということはよくわかっている。

 残念ながら、ただの人間だ。こうして考えることのすべてが、自分は人間でしかないと痛感させる。どんな姿になっても、自分は自分でしかない。

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