第253話
考えている間にタナトスが一人で戻って来た。食堂の入り口で少しキョロキョロしてから、安治を見つけて近寄ってくる。
「戻って来た」
「メェ」
「食堂。何か飲む?」
「メェ」
走ったせいかいくらか喉が渇いていた。頷いて立ち上がる。しかし何をどうやって飲めばいいのか。備えつけのグラスではうまく飲める気がしない。
と、大柄な女性が向こうから歩いてくるのが見えた。ノースリーブから健康的な六本の腕を出し、給仕用のエプロンを着けている。きっとこの食堂で働いているのだ。
「メェ!」
――アソウギ!
後ろ足で立ち上がって呼び止める。女性は近くまで来ると立ち止まって目線を下げた。
「何かご用ですか?」
ゲーム内で会ったときと同じく丁寧で優しい口調だった。今の安治は一三歳ではないけれど、思わず甘えたくなる雰囲気がある。
「メェ、メェ」
「何でしょう。お食事ですか? ご用意できますよ」
「今は食べない。飲みたい」
「ああ、では器をお持ちしますね」
「メェ」
――ありがとう。
察しが良くて助かった。じきにカウンターの内側から小ぶりなボウルが差し出された。
「お水はドリンクコーナーのをお使いください」
「あう」
受け取ったタナトスは頷いて、奥のドリンクコーナーに向かった。そしてコーヒーカウンターの前に立つと、
「安治はコーヒーが好き」
と呟いた。慌てて上着の裾を引っ張る。
「ンメ!」
――コーヒーはダメ!
何故ヤギにコーヒーを飲ませようと思うのか、この三歳児は。
ぷりぷりしながら隣の給水機を前足で指す。
「水を飲む?」
意図は伝わったらしく、聞き返してくる。
「メェ」
――当たり前だ。
「ミルクと砂糖は?」
「ンメ!」
――いらない!
「あ、砂糖ではなくてガムシロップ。冷たいから」
「ンメ!」
――そういうことじゃない!
タナトスの表情がふざけている風ではないのが却って怖い。足りない頭で真剣に考えた結果がこれなのだ。
「ただの水でいい? 味がない」
「メェ」
――味はいらないから。
「炭酸水もある」
「ンメ!」
――シュワシュワしてなくていいから!
「もしくはリンゴジュース。野菜ジュースもある」
「……ンメ」
少し迷う。野菜や果物なら平気かもしれない。味がないよりあるほうが飲みやすいのは事実だ。しかし砂糖や添加物が入っているかもしれない。やはり水が無難だろう。
結局「ただの水でいい」ということを伝えるのに五分かかった。タナトスはボウルに水を汲んだ後も、トッピングのコーナーにあるシナモンやチョコシロップや抹茶パウダーやフォームドミルクなどを入れなくていいのかといちいち訊いてきた。親切で言っているのはわかる。根気よく断りながら、ヤギになって一番の苦労を味わった。
やはり、言葉が話せないのは辛い。
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