第170話

「それって、記憶がリセットされたってこと?」

「わからない。タナトスの前は違う人。みんなはその人を知っている。タナトスはタナトスしか知らない」

 ――タナトスの前は違う人。

 妙に心に残る言い回しだった。そう言ったときのタナトスが心なし寂しそうな、空虚な表情だったからかもしれない。

 ――俺もそうなんだよなあ。

 自分が本当にクローンなのか、それとも騙されているだけなのかは、今すぐには判断がつかない。それでもここにいる人たちが持っている過去の自分像は、今の自分とは別人だという気がする。気がするというより、そう思ったほうが楽だ――と気づいてしまった。

 ――別の人になれたら楽だよな。

 ぼんやりとそう思ったとき、左手の指輪が一瞬光った。

 まただ、何だろう――と視線をやったところでタナトスが呟いた。

「エロスは昔から恋人」

「え?」

 どういう意味なのか聞き返したつもりだった。しかし独り言だったらしく、タナトスは遠いところを見たきり返事をしなかった。

 ――だから嫌なのか。

 安治は直観した。エロスはかつてのタナトスの恋人なのだ。現在のタナトスは、その頃とは別人だ。それなのにエロスは、現在のタナトスとかつてのタナトスを同一視している。それがタナトスにとっては不愉快なのだろう。

 きっとタナトス自身はそれを理解していない。説明してあげたほうがいいのだろうか。しかし説明したところで理解してくれなさそうな気がする。それでも説明するのが教育係としての役割だろうか――?

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