第167話

 一切問い返すことをせず、迷いのない動きで頭を下げたおりょうを所長が引き留める。

「あの子――疑ってない?」

「我々の説明をですか?」

 これにはおりょうの表情が一瞬崩れた。微妙な苦笑いを浮かべる。

「心の内はわかりませんが――見た限りでは、信じていらっしゃるかと」

「素直で助かるわ」

 言葉と裏腹に、所長も軽く呆れ顔だ。

「まあ、取り乱したり抵抗したりしないんなら、そのほうがありがたいのはありがたいんだけど」

 おりょうは表情を引き締めて推測を告げる。

「まだ現実として受け入れられていないだけかもしれません」

 所長は頷いた。

「そうかもしれないわね。落ち着いて見えるのは、そもそも現実逃避しているからってことね。今は都合の良い夢を見ていたい――それがいつまで続くかはわからないわ。何かのきっかけで急に里心がつくかもしれないし」

 言葉を句切って所長は「今後、もし――」と本社の有望株を見た。

 おりょうはただ、心得ているという風に頭を下げたのみだった。気負いもなければ慢心もない。嫌がっている風もない。

 特殊な任務に対しての特別な対価を求める気配もなかった。まるで感情も計算も感じられない。

「お願いね」

 それが終わりの言葉だと理解し、忍びやかな影はひっそりと消えるように部屋から出て行った。

 一人に戻った所長はしばらく夜空を眺めていた。カップの紅茶を半分まで減らしたところで、どこか物憂げに呟く。

「私たちに協力してくれるなら、ずっと生かしておけるんだけど――」

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