第162話

 安治はぽかんとした後、数瞬遅れて怒りを覚えた。

「何あいつ」

 短いが万感の思いを込めた呟きに、タナトスが冷静に頷く。

「要次」

 あれが彼だとでも言いたいのだろう。妙に達観した一言に、安治は一転して可笑しさを覚えた。

「タナトス、あの人のこと知ってるの?」

「みんな言う。まともに相手しなくていい。何を言われても返事だけしておけばいい」

「なんだ、そういう評価なんだ……やっぱり」

 一瞬でも怒って損をした、と肩の力が抜ける。

 不意にタナトスが呪文のように唱えた。

「彼は人の不幸が好きな人。好きなものは自ずと寄ってくる。不幸が好きな人には不幸が寄ってくる」

「何、急に。それも誰かに言われた?」

 訊きつつ、それはそうだろうなと思う。子どもは周囲の言葉を覚えて育つものだ。

 ふと弟の小さいときが思い出される。やっと言葉を話し始めたと思ったら、意味もなく「うるせえ!」を連発するようになった。原因は考えるまでもない。当時、安治が上の姉に対して口癖のように言っていたのを覚えてしまったのだ。

 しかしタナトスは何を言ったのだろう。反復する。

「好きなものは自ずと……?」

「好きなものは自ずと寄ってくる」

「どういうこと?」

「どういうこと?」

 何故かタナトスも首を傾げる。

「いや、こっちが訊いてるんだよ。わかってて言ってるんでしょ」

「それほど難しいということ? 好きなものは自ずと寄ってくる」

「言葉の意味はわかるよ。でも……そうだなとは思えない。何か具体例を挙げてよ」

 タナトスは手を口元に当て、子どもっぽい仕草でしばらく考えて言った。

「ヤギが好きな人にはヤギが寄ってくる」

 ――どんな例えだ。

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