第118話

 ゆっくりと考えを巡らせる時間はなかった。

「さあ、お行き」

 狭く暗い通路の途中にぽっかりと白い空間が開いていた。

 反射的に安治は踏み込むのを躊躇う。

 ――何だこれ。

 白い空間というのは比喩ではない。隣に明かりの点いた部屋があり、明るさの違いで白く見える――というのではないのだ。

 まるで白という色が壁に貼りついているような。

 その先に立体的な空間があるようには見えない。

 本能が違和感と不審を訴える。

「何、これ……」

 思わず後退る安治の手首を、凶悪な強さでたま子が摑む。

「行くぞ」

「待ってよ、これ、変じゃない?」

 声を受けて、ドクター箏司郎の関心が安治に向けられる。

「おや、その子は……?」

 珍しいものでも見るような態度に、たま子が素早く割って入る。

「アシスタントの研究所産です。ドクターの気を引くような存在ではありません」

「研究所産……?」

 それ以上の会話を拒むようにたま子が一歩を踏み出す。手首を引かれて安治も続くしかなかった。

 何が起きたのか理解はできない。白い色が視界を覆ったと思った瞬間、床が抜けた。気づけば上空にいて、立ったままの姿勢でゆっくりと落下していた。

「……うわ……」

 恐怖に少し遅れて快感が鳥肌を立たせた。現実だと思うにはあまりに非日常的過ぎる。これは――夢だ。

 まず認識できたのは雲だった。綿菓子のような雲に囲まれている。その向こうに薄い水色の空があった。空には淡い虹がかかっている。眩しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る