第91話
言い返すことはしない。事情を知らない安治に言えることはない。ただこの人の気持ちの悪さには耐えられなかった。内容に反して、野球チームのファンが完勝した試合を振り返るかのように楽しそうな様子が気持ち悪い。
「その点、俺は気楽だからさ。まあ、いいポジションだと思うよ。忙しすぎず暇すぎず、やりたいときにやりたいことができて――」
安治は無言で席を立った。持っていた漫画を棚に戻し、別のを選ぶ素振りをする。
男性も後をついてきた。用もないだろうに、棚に向かって横に並ぶ。
「あ、この漫画の実写版、入ってきたの観た? まだなら観てよ、まあ酷いから。どこをどういじくり回したらこうなるんだってくらい滅茶苦茶だよ。まあ、わかってたけどね、監督とキャストを見た時点でさ。いいのは音楽だけ。そもそも邦画ってレベルが低すぎだからね――」
耳を塞ぎたいのを堪えつつ、棚の裏側に回る。それでもついてくるので、更に回って同じ場所に戻る。
更に追いつかれる前に別の棚の間にするっと逃げ込む。
それでも追いかけてくる気配があったので、視界を逃れた一瞬に小走りで立ち去る。
――まいたかな。
カウンターが見えない位置にまで来て、少しほっとする。棚の間を縫うように動くのは森の中で追いかけっこをしている気分だった。
実際にはそんな経験はない。おそらくテレビか映画で見たシーンを思い出したのだろう。
――なんで森の中で追いかけっこ?
きっと山小屋に監禁された被害者が命からがら逃げ出すシーンだ。気づいた殺人鬼が追ってくる。姿を見られないように、大きな音を立てないように、静かに、でも急いでここを離れないと――。
棚の林を抜けた。そこには個別ブースに仕切られた視聴覚スペースが広がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます