第89話

 読み始めていくらも経たないうちに、隣に人が座った。

「最近来ないじゃん」

 唐突に話しかけられてぎょっとする。顔を上げると、五〇代と思しい白髪混じりの男性が雑誌片手に柔和な表情を浮かべていた。

「…………」

 安治はどう返すべきか迷い、軽く首を傾げるだけでやり過ごそうとした。しかし男性は親しげな言葉を続ける。

「実験が忙しいって言ってたけど、ジムにも来れない?」

 ――ジム?

 仕事ではなくジム仲間なのだろうか。

「はあ……」

 聞こえないくらいの声で返す。忙しいという理由なら、ジムには行けないのに図書室で漫画は読めるというのはおかしいだろう。突っ込まれては困るので、はいもいいえも答えられない。

 逃げたほうがいいのだろうか。しかし直前に漫画を持って座るところを見られたかもしれない。何と言って席を立つのか。明らかに不自然だ。

 仕方がない、突っ込まれたら、実験の影響で軽い記憶喪失になっているのだと答えよう――そう決意して、その場に留まる。

 男性は楽しそうに微笑みつつ言う。

「そういえばさ、前来た焼き鳥屋、もう来ないじゃん。あれ、評判が悪くて潰れたらしいよ」

「……はあ」

「あのクオリティじゃしょうがないよね。認められるわけないよ。まあ、一部の人は美味しいって言ってたけどさ。実際、大したことなかったよ。舌が肥えてない人は炭火焼きってだけで美味しいと思っちゃったんだろうけどね。俺には合わなかったよ。ああ、もう、次はないだろうなって思ったら、やっぱりだったね」

「……はあ?」

 何の話なんだ、一体。安治は思わず男性の顔を見る。どちらかと言えば知的で上品な感じの風貌なのだが。

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