第80話

「出ても平気だぞ。その水の中なら呼吸ができる。ちょっとした無重力体験だ」

「えー……」

 そう言われても、試すのには勇気がいる。

「これどれくらい続くの?」

「三〇分くらいだな。見とけよ。龍が通るぞ」

「は? 龍?」

 思わず左右を覗き込む。龍なら見てみたい。

「もちろん人工の龍だけどな。きれいだぞ」

「うん、見てみたい。そっち行くの遅くなるけど、いい?」

「しょうがないな。見るのに飽きたらさっさと来いよ。その水なら入っても濡れないし、アバカスも壊れないから。普通に移動できるからな」

「アバカス――って何のことだっけ?」

「お前の頭には乾燥したヘチマでも詰まってるのか。端末のことだ」

「ああ、思い出した」

 だって、覚えづらいんだもん――と口の中で言い訳をする。

 通話を切って数分、通路には何も通らなかった。その間、水は静かに安治を魅了し、誘惑し続けた。

 安治は始め、水の壁に手や頬を当てたりしていた。単純にこの状態の水が珍しく面白い。

 それに慣れると思い切って入ってみようという気になり、バスタオルを持ってきて玄関に置いた。

 まずは両手を手首まで入れてみる。――何だか不思議な感じがした。

 水圧がないし、思ったほど冷たくない。室温だ。水のように感じるのは壁になっている部分だけで、その向こうは空気なのかもしれない。

 顔もつけてみる。感触はまず、プールに顔をつけるのと同じだった。ところが頭全体を入れてしまうと、そこはもう水中ではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る