第35話

 安治は姉の澄子すみこを思い出す。澄子も、子どものころからやっていた――やらされていたので、その年にしては料理が上手だった。

 ――澄子。

 澄子が作るのも和食がほとんどだった。母親がそれを求めたからだ。

 食器一つ洗わされたことのない長女と違って、次女の澄子が作る卵焼きも完璧だった。できなければなじられる。長女はやらないのが当たり前、次女はやるのが当たり前だった。

「どうかされましたか?」

 声をかけられて、自分がおかしな表情をしていたことに気づく。

「ううん、ごめん。……ちょっと思い出しちゃって」

 おりょうは曖昧に微笑んだ。何を、とは訊いてこない。

 安治の記憶は、おりょうにとってはないのと一緒だ。安治の実家は、実際にはない。澄子も、長姉も母も、本当は全部存在しない。思い出す必要のあることなど何一つない。

 ――澄子が存在しない……。

 ほんの少し胸が痛んだ。同時に、それは喜ばしいことだと安堵もする。あの幸薄い女性が本当はいないのなら――そのほうがいい。

「あの――おりょうちゃんて、何歳なの?」

 無理矢理に頭を切り替える。野菜の甘みと出汁がマッチした、シンプルにしてリッチな味噌汁を一口味わってから訊く。

「今年二二になります。安治さんと同い年です」

 おりょうは冷静に、丁寧に、まるで台本を読み上げるように淀みなく答えた。

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