【番外編】《兄弟・親族で殺し合ったヨーク家とは》その2

 前回から「兄弟・親族で殺し合ったヨーク家」と書いていますが、プランタジネット家に属していた、ランカスター家、ヨーク家、そしてランカスター家と繋がりのあったチューダー家(ヘンリー7世のエリザベス・オブ・ヨークとの結婚によってヨーク家とも縁の出来た)、これら全ての一家が入り乱れて争い、 戦争をして、お互いに殺し合っていました。

 

 元々は偉大なるプランタジネット家のエドワード3世に息子が多かったため、そこからランカスター家、ヨーク家が誕生し、それらの家系が王の地位を獲得しようという争いが生まれてしまったわけですが、側近達もまた、そのプランタジネット家からの次男・三男以下の家系、または庶子の家系、あるいは結婚によりプランタジネット家と縁のできたそういう家族が王の側で地位を固めていたので、当時の王宮(当時はロンドン塔が王宮でした)に出入りしていた多くの家臣達も実はほとんどがプランタジネット家と密接に関係のある者達でした。一族が一丸となって、国を支配し、権力や財力など全ての特権を手中に収めていたわけです。もちろん、これはフランスも神聖ローマ帝国も、当時の全ての王族がそのように采配していたわけで、イングランドのプランタジネット家に限る話ではないのですが……。


 なので本来であれば「兄弟・親族で殺し合ったプランタジネット家」というタイトルが相応しいのでしょうが、それでも「ヨーク家」としたのは、前回も書いたようにヨーク家のイメージは、シェークスピアの「リチャード3世」から

「王になるために、兄の息子であった幼い王子2人を殺したリチャード3世」という話が私の頭の中にもこびり付いていたからなのです。


 その上、エドワード4世の弟で、リチャード3世のすぐ上の兄であったクラレンス公ジョージは、従兄弟でありキングメーカーと異名を持つウォリック伯にそそのかされ、エドワード4世が王座を奪うことに一役買いました。が、幼い頃から共に過ごすことの多かったリチャードの説得でエドワード4世側に戻り、三兄弟揃ってウォリック伯を倒し、ヘンリー6世とその嫡男エドワード王太子を殺害、エドワード4世は半年後には復位を果たしました。


 でも、それから7年後にはリチャードとウォリック伯の遺産を巡り、リチャードの陰謀によって、エドワード4世に処刑させられた、というようにシェークスピアの「リチャード3世」には描かれているために、リチャード3世には、2人の甥殺しの他にも兄ジョージ殺し、という誠に血なまぐさいイメージがこびり付いているのです。


 ジョージとリチャードはウォリック伯の娘達とそれぞれ結婚していたため、非常に裕福だったウォリック伯の遺産を受け継いでいたのですが、そのために兄弟間で争いがあったということでした。シェークスピアの「リチャード3世」によると、財産を独り占めしたかったリチャードの陰謀によって兄王への反逆罪が疑われたというものでしたが、これは本当でしょうか。

  

 ナンシーでシャルル突進公が亡くなった1477年に、半年前に妻イザベルを亡くしていたジョージは我らがマリー・ド・ブルゴーニュと縁組を結びたいと希望し(彼らが幼少の頃に一度その話はあったものの立ち消えになっていた)、でもその思惑を危険視したエドワード4世から反対されていました。

 

 そこにあるのは兄が自分の将来の可能性の何もかもを否定していると感じ、兄に敵意を抱き始めたジョ-ジの姿で、その後はそのまま再び兄への反逆罪の疑惑をかけられ、結局は兄エドワード4世によって極刑を言い渡されて、1478年2月18日に非公開で処刑されたというのが真実です。


 なので実際には、クラレンス公ジョージを処刑させたのはリチャードではなくて、エドワード4世でした。でもシェークスピアによれば、ヨーク家内の陰謀に基づく殺害は全てリチャード3世の仕業であると描いているために、後世までもそれが真実と思われているわけですが、まだこれ以外にもリチャードの陰謀とされている、別の話もあります。


 1477年にもクラレンス公ジョージは

「エドワードは父ヨーク公リチャードの嫡子ではなく、母セシリー・ネビィルが他の男との間に作った庶子である」という噂をぶり返したのでした。

これはもともと1470年にエドワード4世を一度退位させた時にウォリック伯(セシリー・ネビィルはウォリックの伯母でもありますが)と共に流した噂でした。

これによってクラレンス公ジョージの王位継承の正当性をイングランド議会に認めさせようとしたのですが、シェークスピアはこの件も、元はリチャード3世が言い始めたように書いています。


 シェークスピアによれば

「自分の欲のために、母親に姦通という不名誉をなすりつけた」「実の母の顔に公然と泥を塗った」酷い男というのがリチャード3世になります。


 しかしこの

「エドワードは父ヨーク公リチャードの嫡子ではなく、母セシリー・ネビィルの庶子である」という話は一体どこから出てきたのでしょうか?


 かつてエドワードの生まれてすぐの幼児洗礼がエドムンドに比べて貧素だったのが彼が庶子だった証拠の一つとも言われたようですが、セシリーはエドワードが生まれる1年前に長男ヘンリーを生後その日に亡くしています。

 

 当時の人々は洗礼を受ける前に死ぬと天国へは行けないと強く信じていました。もしかしたら長男ヘンリーは洗礼させる間もなく、亡くなったのではないでしょうか。

そうであれば、母親であるセシリー達は息子の豪華な洗礼式よりも、すぐに執行可能な場所での洗礼式を、簡単でも良いから一刻も早い洗礼式を強く希望したのではないかと想像できます。


 そもそもエドワード、エドムンド、マ-ガレット、ジョージ、リチャード兄弟の中で最も容姿が兄弟と似ていなかったのは、エドワードではなくて、リチャードだったと言われています。ただし、その代わり彼は父ヨーク公リチャードにはよく似ていたでした。黒髪で身長の低いリチャードは父に一番似ていたのです。他の兄弟の内の一人(エドムンドあるいはジョージ)は金髪で長身で特にエドワードに似ていたそうです。


 また、生まれてすぐに亡くなった長男ヘンリーとエドワードの生まれた年が14ヶ月しか離れていないため(しかし、エドワードとその弟エドムンドの年の差も13ヶ月弱ですが)計算が合わないとか、エドムンドを妊娠した頃、ヨーク公リチャードはセシリーの側を離れ長い間フランスにいたため妊娠は不可能であったとか、様々な事からエドワード4世を非嫡子にしたいという一部の勢力があったようで、ジョージはその説を利用したかったのかもしれません。王位継承者を非嫡子扱いにするというのは当時のどこの王室でも反対勢力が真っ先に使う手段でした。


 そしてもう一つの大きな問題は、エドワード4世はエリザベス・ウッドビルと結婚する前に既にエレノア ・バトラーという女性と婚姻していたという説なのですが、もしこれが真実であれば、エリザベス・ウッドビルの生んだ子供達は全員庶子となり、将来王位継承者にはなり得なくなります。

後にリチャード3世はこの説から、甥のエドワード王子達から王冠を取り上げ、自分が王となるわけですが、この説を言い出し始めたのも本当にリチャード3世なのでしょうか。


 しかしどう見ても、後にリチャード3世が言い出したと書かれているシェークスピアのリチャード非難は、ほとんどが濡れ衣であり、ウォリック伯やクラレンス公ジョージなどのエドワード4世対抗勢力が前から使っていた説もあり、決してリチャードが最初に言い出したものではなく……よってシェークスピアによる「リチャード3世」は逆にシェークスピア側の捏造によって書かれたものと考えることすらできるのです。


 このようなことを踏まえ、次回はついに「ロンドン塔の王子達」を殺害した人物についての考察を続けたいと思います。



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