【第2章】その32 ✤百年戦争---後半(第3期)


 【第3期  1413年−1428年】


 シャルル6世の死去により、トロワ条約によりイングランド王ヘンリー6世は生後11ヶ月でフランス王位を継ぎ、1429年(ほぼ8歳だった)にはロンドンのウエストミュンスター大聖堂でイギリス王戴冠式を、1431年10歳の誕生日にはパリのノートルダム大聖堂でフランス王戴冠式を行っていた。


 そして既にフランスの領土の3分の1近く、そしてパリやルーアンまで占領していたイングランド軍が次に進軍したのがオルレアンだった。勢いあるイングランドの勝利を誰もが確信していたその時、まさに彗星のごとく現れたのが、かの有名な「聖なる乙女ジャンヌ・ダルク」で、オルレアンから300㎞程東方のドンレミ村(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという名)の農民の娘だったジャンヌは、たった8日間の戦闘でイングランドの並み居る将校達を打ち破ったのだ。しかもその時彼女はまだたった16歳の少女でもあった。


 彼女の快進撃はよく知られていることなので、ここでは割愛し、年号と場所だけを記載する。



〈1428年〉 ジャンヌ・ダルク登場 (オルレアン)


ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新し、勝利に導く。


〈1429年〉 シャルル王太子のシャルル7世としての戴冠式を遂行 (ランス)


 シャルル7世自身はヘンリー6世がパリで戴冠したその4ヶ月前の1429年7月17日に、ランスのノートルダム大聖堂でフランス王戴冠式を挙行したことによって、フランス王位の正当性を保ち続けることに成功する。当時フランス王のランス大聖堂での戴冠(パリなどの他の場所ではなくて)というのは非常に大事なことで、この戴冠式は彼にとって、またフランス国民にとって、先の運命を大きく決定した歴史上かなり重要なセレモニーであったのだ。



〈1430年〉5月23日 捕虜となる (コンピエーニュ)


 彼女をイングランド軍へ引き渡したのは、ブルゴーニュ公フィリップ善良公



〈1431年〉5月30日 火刑での処刑 (ルーアン)


 シャルル7世が積極的に救出に動かなかったという説や、いや実は4回(歴史家によっては5回)も救出しようと軍を出していたという説、あるいは王が彼女に嫉妬を感じたなど色々な説がある。


 しかしながら彼女はあまりにも成功し、有名になりすぎていた。そしてジャンヌが天から聞いた声が、彼女の王であるシャルル7世の命令よりも正しいと、彼女が考えはじめた頃には王は既にジャンヌを危険人物と思い始めていたのではないだろうか。


 つまり彼女の名声への嫉妬だけではなく、政治的危険、将来の問題を考えた時に、シャルル7世にとって、ジャンヌは脅威的な存在となる可能性が非常に高くなっていたために積極的には助けようとしなかったというのが、一番近い真実なのではないかと思われる。


 悲しいけれど、シャルル7世にとって彼女は既に用済みの存在になっていたのだろう。そして中世の王達がそのように考えたとしても、決して驚くようなことではない。自分の親兄弟のみならず、親戚の小さな子供達でさえも時によっては殺害することもあった時代なのだから……と、私は思うが、真相は今でもはっきりわからない、というのが現在の歴史家の話ではある。



さて、その後の年表をまとめると



〈1435年〉 アラスの和約


フランス王シャルル7世とブルゴーニュ侯フィリップとの間に締結され、実質的に百年戦争を終結させた条約。ブルゴーニュはそれまで同盟していたイングランドから離脱。


ブルゴーニュがフランスへ寝返ったことによって、フランスの大きな反撃もあり大陸領を失っていたイングランドは和約するしか道はなかった。



〈1444年〉 トゥールの和約


 英仏間での2年間の休戦


和約の内容は


・フランス王シャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪マーガレットとヘンリー6世の結婚(ヘンリー6世は23歳、マーガレットは15歳)


・イングランドのメーヌをフランスへ返還



〈1450年〉ノルマンディーもフランスへ返還という協定が結ばれる


 ところで、これらの協定を結んだのは、ヘンリー6世の側近サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール卿だったのだが、この決定に大きな不満を持った市民や貴族から反対が噴出する。



〈1450年〉3月 ヘンリー6世、サフォーク伯追放



〈1450年〉4月 


この頃、イングランドにおいてジャック・ケイドの反乱が始まり、ここで担ぎ出されたのがヨーク公リチャードだった。



〈1450年〉8月12日

ノルマンディーにおける最後のイギリスの拠点であるシェルブールが陥落した。



〈1451年〉  


最後の砦とも言える、アキテーヌの都市ボルドーがフランス軍に奪取(だっしゅ)され、300年もの間イングランド領だったアキテーヌ公領までもがついにフランス側に陥落。



〈1453年〉7月17日 カスティヨンの戦い 


フランス王国・ブルターニュ公国とイングランド王国の間で行われた最後の戦い。


多くの領土を失ったイングランドは敗北し、ここに116年続いた百年戦争はついに幕を閉じる。




 しかしイングランドの問題はこれでは終わらなかった。


 イングランドでは敗戦後にヘンリー6世が精神錯乱を起こす。


 フランスでも似たような話があったことを覚えておられるだろうか。前回まで登場していたシャルル6世も狂気王ではなかったか。


 それもそのはず、この2人の狂人の血はシャルル6世の母ジャンヌ・ド・ブルボンから受け継いだものである。シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワは、ヘンリー6世の母であり、つまりヘンリー6世の母方の曾祖母だった。


 シャルル6世の精神疾患の遺伝子がヘンリー5世とキャサリンの子ヘンリー6世にもたらされたことが、イングランド王朝プランタジネット家を断絶させるわけだが、それは後の歴史からわかることである。


 ヘンリー6世の狂気、これをきっかけに次は側近のサマセット公エドムンド・ボーフォートと王族のヨーク公リチャードが政争を繰り広げ、ここから薔薇戦争が始まる。薔薇戦争とは百年戦争敗北の責任を押し付けるべく始まったイングランド内での権力闘争なのだが、そもそもの火種はヘンリー6世の祖父ヘンリー4世の時から始まっていたのだ。父ジョン・オブ・ゴーントの長兄の孫だったリチャード2世に反旗を翻し、もう一人の伯父であるクラレンス公ライオネルの親族を無視して王位を継いだのがヘンリー4世のランカスター家であった。


 百年戦争の中間期においてイングランド国内で繰り広げられていたエドワード3世の孫達に当たる従兄弟同士での家督争いは、百年戦争下において有能だったヘンリー5世の活躍で一旦落ち着いたかのように見えたものの、その息子である狂気王ヘンリー6世によって再び勃発する。


 果たしてこれは、ただの悪運のせいなのだろうか?


 そもそも自我を押し通したランカスター家には、正当性を疑問視される部分が最初から存在していた。完全なる正当性に欠けていた上に、精神を病んだ狂気王の誕生である。


 これはプランタジネット王家の一族であるヨーク家にとっては、決して見過ごすことはできない大きなチャンスだったのだろう。 


 どうやら王位に就くチャンスが、やっと自分達にも回ってきたらしい……と思ったのだ。


 このような中では、エドワード3世の2人の息子クラレンス公ライオネルとヨーク公エドムンド両方からの血筋を引いたヨーク公リチャードこそがプランタジネット家の正当な後継者である、という考えが出てきたのも無理はない状況だったのには違いない。


 そしてついに1455年、百年戦争が終わって2年後に、イングランドでは薔薇戦争が勃発するのである。



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※近況ノートにイングランド王家プランタジネット朝家系図を作成して載せてありますので、そちらを参考にお楽しみください。




またベルギーに近いドイツ在住の地の利を生かして、InstagramやTwitterではマリー・ド・ブルゴーニュのゆかりの地ベルギーのブルージュで見かけた、マリー姫に関連するものをご紹介していきます。


この物語と合わせてお楽しみ下さい。



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