【第2章】その31 ✤百年戦争---中期(英仏両王の誕生)
※イングランド王朝プランタジネット家の家系図を近況ノートにアップします。百年戦争は家系図無しに理解するのは困難を極めます。なのでどうか、その家系図を参考に本文をお読み下さい。
百年戦争は1337年から1453年の間に断続的に行われた戦争だったが、休戦期間もあり、本当に戦っていた期間というのは50年前後だったようだ。
そしてこの百年戦争の中で私が最も興味深く感じたのは、実は2回目の休戦協定からその後30年の間の出来事だった。
最初はイングランド対フランスの戦いだったのに、この頃にはイングランドはプランタジネット家のお家騒動に、フランスもまたヴァロア家とブルゴーニュ家の親戚同士の権力争いへと発展していた。それにより百年戦争は一旦休戦となったわけだが、途中ではフランスのヴァロア家とブルゴーニュ家は共にイングランドへ応援を求めようと画策し始め、結局ブルゴーニュ家にいたってはフランス王家を見捨て、イングランドへ鞍替えするというような事態にも発展した。
これにより、当時いかに国家、国民という意識が希薄(きはく)だったのかがわかるのだが、例えば、イングランドの王がフランス王になる可能性がある背景にはイングランド王はフランス王にとっては配下のもの、という位置づけだったためということなので、もともとフランスにとってもイングランドは兄弟国(立場的には支配下の国)という感じだったのだろうと推測できる。
さて、では早速この中間期の主な出来事を順番に追っていく。
休戦協定が結ばれる1396年に遡る。
この頃のイングランド王とフランス王は若いせいもあったのか、共に戦いを好まない傾向があり、1392年にアミアンにてリチャード2世とフランス王シャルル6世の会見の場が設けられる。
〈1396年〉第2回休戦協定
3月11日にはパリにおいて、イングランド王リチャード2世とフランス王シャルル6世との間で 2度目の休戦協定(1426年までの28年間)が結ばれる。
〈1397年〉
リチャード2世(29歳)は両国の休戦条件としてフランス王シャルル6世の娘イザベル・ド・ヴァロア(7歳)と結婚。
しかしこの頃イングランドでは、フランスとの戦いの他に、
〈エドワード黒太子の息子リチャード2世〉対〈ジョン・オブ・ゴーントの息子 ヘンリー〉 という、
骨肉の争いが始まっていた。
ランカスター家のジョン・オブ・ゴーントの息子ヘンリーが従兄弟であるリチャード2世に反旗をひるがえし、退位させ、幽閉して、1399年ヘンリー4世として即位。
(なんとも残酷なことに、リチャード2世の死因は餓死説が有力)
〈1400年〉
リチャード2世が獄死したため、まだ幼いイザベルはフランスへ返され、オルレアン公シャルルと結婚する。ちなみにこのイサベルとはヘンリー5世の妻でヘンリー6世の母でもあるキャサリンの姉だった。つまり、ヘンリー6世にとってイザベルは伯母に当たる。
しかしながら、この時の本当の問題は、ヘンリー4世の父には兄ライオネルがいて、そこの子孫が残っていた。つまり王位継承権はそのライオネルの子孫であるモーティマー家のマーチ伯が上だった。ライオネルには娘フィリッパしかいなかったのだが、娘には息子、そして孫の男子もいたのである。
そもそも1398年には第5代マ-チ伯エドムンド・モーティマーが僅か6歳の時には既に、国王リチャード2世から王位請求権を受け継いでいたのだが、リチャード2世の死後その権利は無視され、ヘンリー4世が半ば強引に王に即位したのだった。そういうわけで、王位継承に関してはどう見てもヘンリー4世に問題があった。
そして当然、
〈ライオネルの子孫 モーティマー家〉対〈ジョン・オブ・ゴーントの息子 ヘンリー4世〉
の戦いが始まる。
〈1403年〉 シュルーズベリーの戦い
ヘンリー・パーシー(フィリッパの娘エリザベスの夫)とマーチ伯の叔父エドムンド(フィリッパの末の息子)がマーチ伯の王位継承を求めてヘンリー4世に反旗を翻す。
マ-チ伯の叔父エドムンド(フィリッパの末の息子)は戦死、そして悲しいことに彼の妻と3人の娘はロンドン塔に幽閉され死亡している。実にイングランドの呪われたロンドン塔の歴史には目を覆いたくなる。
〈1413年〉
ヘンリー4世(46歳) 崩御を受けて、息子(26歳)がヘンリー5世として即位。
一方、自分が王になることよりも、ヘンリー5世に仕えることを選んだマーチ伯エドムンド・モーティマー(フィリッパの孫)はヘンリー5世よりバス勲章(イギリスの騎士団勲章)も受け、厚遇され1423年に死去。
この醜い骨肉の争いで自ら身を引いた人物はこのエドムンド・モーティマーくらいだったのではないだろうか。賢い人である。しかし「政局の邪魔にならないようにアイルランドへ送られ」33歳の時にペストで亡くなったらしいので、最後まで厚遇されたのかは本当には不明である。
そして「中世で最も優れた王」と異名を持つ ”時のイングランド王” ヘンリー5世は、即位から2年後の1415年に百年戦争を再開。
しかし、一方その頃のフランスと言えば実際にはそれどころではなかった。
シャルル6世が相変わらず精神を患っていてもはや「狂喜王」と呼ばれるように。
その隙きを狙ったのがブルゴーニュ公フィリップ豪胆公(シャルル6世の叔父にしてマリー・ド・ブルゴーニュの高祖父)で、既にシャルル6世の弟オルレアン公ルイとの争いが始まっていた。
フィリップ豪胆公はフランドル伯であり、フランドルの毛織物産業において、イングランドの羊毛は欠かすことはできず、もともと親英派だったのだ。
これは、フランス中を巻き込んだ派閥争いへと発展する。
〈シャルル6世の息子シャルル王太子〉対〈ブルゴーニュ公ジャン無畏公(こちらはフィリップ豪胆公の息子)〉
こういった構図である。
まずはオルレアン公ルイが暗殺され、この頃、フランスは王党派であるアルマニャック派と、そして対するブルゴーニュ派が両派共にイングランドへ助けを求めようとしていたほどだった。
……恐るべし、フランスである。敵と手を組み、親族でもある味方を陥れようとしていたとは、さすが後の蜘蛛王ルイ11世や嘘つきフランソワ1世を輩出した国だと思ってしまうのは私くらいだろうか。
最終的にはその後シャルル王太子のアルマニャック派がジャン無畏公を暗殺したため、ブルゴーニュ公ジャンの息子フィリップ善良公は最終的にイングランドと同盟を結ぶ。
〈1419年〉 アングロ・ブルギニョン同盟(イングランドとブルゴーニュ家の同盟)
この同盟によってイングランドは圧勢に。
〈1420年〉 トロワの和約 締結
締結の内容は
・シャルル6世は死ぬまでフランス王のまま
・シャルル6世の娘キャサリン(イザベル・ド・ヴァロアの妹)をヘンリー5世と結婚させる
・シャルル6世亡き後は、ヘンリー5世がフランス王に即位して英仏統合王国になること
等々だった。
それによって王太子シャルルは廃嫡(はいちゃく)されることに。
ところが
まさに仏英大帝国の出現まであと一歩のところで、なんと……
〈1422年〉8月31日 イングランド王ヘンリー5世 34歳の若さで急死(死因は赤痢)
ヘンリー6世、生後9ヶ月でイングランド王位を継ぐ。
そして、そのわずか2ヶ月後
〈1422年〉10月21日 フランス シャルル6世 53歳で死去
トロワ条約によりイングランド王ヘンリー6世が生後11ヶ月でフランス王位を継ぐ。
それにしても、この2人の王の死亡した順番が「運命のいたずら」と言わずしてなんと言えば良いのだろうか。
この2人の死の順番が入れ変わっていたら、そしてヘンリー5世があと数年でも生きていたら、イングランドとフランスを含めたヨーロッパ史は随分と違うものになっていたことだろう。1歳にもなっていなかった、ヘンリー6世ではやはり王と言うには若すぎた……というか、まだ赤ちゃんではないか。
それでも、約束通り1429年と1431年にはヘンリー5世の7歳の息子ヘンリー6世がイングランドとフランスの2つの紋章(ライオンと百合)を背負い戴冠することとなる。
でもこれはすごい!!!
なんと、一応ヘンリー6世は両王国の王冠を戴冠していたのだ!!!
しかし当然の事ながら、シャルル6世の当時19歳であった息子シャルル王太子は納得できなかった。
「赤ん坊に王冠だと! ふざけるな!!!」という気持ちだったことだろう。
でも例えシャルル王太子が納得しようがしまいが、もしここにある有名な女性が現れなければ、戦いの女神はヘンリー6世とイングランドに味方したまま、百年戦争は終わっていたことだろう。
ここでも「運命」あるいは「神の御神託」と呼んでいいような展開が始まる。
シャルル王太子にとって、その信じられないような幸運は思いがけない所から突然やってきた。
ついに聖なる乙女ジャンヌ・ダルクの登場である。
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