【第1章】その21✤金羊毛騎士団とフランダースの毛織物産業

 フィリップ善良公が亡くなり、マリーは悲しかった。


 確かにあまり会ったことはない祖父だった。多分それはマリーが男子として誕生しなかったことに彼が失望して、あまり会いに来てくれなかったのだろうということはマリーも薄々気が付いてはいたのだが、それでも母イサベルが亡くなる前後から、祖父がよく滞在していたブリュッセルの宮殿に呼んでくれるようになった。


 母親を亡くしたマリーを不憫に思ったからなのか、あるいは彼自身がもう自分の次世代の跡継ぎはマリーしかいないだろうと、腹を括ったのか……優れた政治家でもあったフィリップ善良公のこと、多分後者の理由の方が大きかったかもしれない。


 当時、既にブルゴーニュ公国の色々な行政機関はブリュッセルに集中していた。フィリップ善良公は活動の表舞台をフランスのブルゴーニュ地方からネーデルランド(16世紀の独立前のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、北フランスの一部を含めた低地地方の諸邦群で「低地の国々」という意味)に移し、王宮をブリュッセルに置いたのだ。


 実際、ワインしかないフランスのブルゴーニュ地方に比べて、ネーデルランドの中でもフランダース地方、あるいはブリュッセルはその頃ヨーロッパのタペストリーの最大の生産地として、格段に豊かだった。


 もともと東方からタペストリーがヨーロッパに紹介されたのが11世紀頃、芸術性が高く、美しく高価なタペストリーを床に敷くのは忍びないとヨーロッパにおいて、それを壁にかけ始めたのだが、冬の寒さが厳しい上、石でできた城塞や宮殿(注1参照)に暮らしていたヨーロッパの王侯貴族達の間で、その使用方法が大人気となる。


 15~16世紀に、この毛織物産業が他国に比べて抜きん出て素晴らしかったのが、このフランドル地方産のもので、ここで作成されたものは一流品と認識され、それこそ飛ぶように売れたという。


 そんな豊かな産業を持つこの国では、フィリップ善良公の年収は100万ドゥカーテン(注2参照)にものぼり、これに匹敵する富を持っていたのはこれまたオリエントとの貿易で富を蓄えたヴェネチア共和国くらいであったということなので、王族としては欧州一の財産家であるという評判が立ったのは決して偽りの噂話ではなかった。


 フィリップ善良公は産業や貿易に力を入れたばかりではなく、フランドル派絵画やネーデルランド派の音楽家を庇護し、ブルゴーニュ公国はその時には既にヨーロッパ宮廷文化の中心でもあったのだが、中でも彼の功績の一つとして一番有名なものは「金羊毛騎士団」創設だろう。


 さて、ここまでの説明でなぜフィリップ善良公が「騎士団」の名前に「金羊毛」を入れたのか、おわかりいただけただろうか。


 ブルゴーニュ公国のこれほどの繁栄は、ネーデルランド地方の毛織物産業の功績であり、そのブルゴーニュ公国民へ対する感謝---少なくとも誇る気持ちがあったからなのだと思われる。あるいは実際には“おもねる”というような“機嫌を取る”気持ちもあったのかもしれない。


「毛織物産業」なくしてブルゴーニュ公国の繁栄は有り得ないと、フィリップ善良公は君主として常に痛感していたのだ。


 金羊毛騎士団は1430年にブルゴーニュ家によって創設され、この伝統はそのままハプスブルグ家に移り、その300年後には女帝マリア・テレジアの夫君であるフランツ・フォン・ロートリンゲンが身につけ、そのまた100年後にはかのシシィことエリザベートの夫君フランツ・ヨーゼフ皇帝など、歴代のハブスブルグ家の君主の首にはいつもこの「金の羊」がついた首飾りがかかっていることを肖像画などから確認できる。


 そしてこの「金羊毛騎士団」によってますますブルゴーニュ家は、優美で華麗な文化的な公国へと発展したのだが、これほど華やかで豊かな公国の王宮というのは、当時他国のどの宮殿にもないものだった。フランス王宮でも、イギリス王宮でも、もちろん神聖ローマ皇帝家のハブスブルグ家などは悲しいことに、それこそ足元にすら及ばない程であった。この3つの大国に囲まれたブルゴーニュ公国の君主が一人栄華を極めていたとは本当に驚きである。


 そのようなヨーロッパで最も財産家のブルゴーニュ家の王宮において、マリーが祖父から見せてもらったものは、見たこともない絵画の名作、精巧な精密画に彫刻、大型なタペストリーや金銀細工に水晶、貴石(きせき)などの装飾品の数々、クリスタルや美しい食器などであり、祖父の機嫌の良い時にはマリーは、騎士団の衣装を身につけることすら許されたという。


 ただゲントの王宮と違い、この優美を極めたブリュッセルの王宮のしきたりは非常に堅苦しいもので、ブルゴーニュ家の伝統を引き継いだハブスブルグ家にその400年後に嫁いできたエリザベートこと、シシィは、それこそこの芝居がかった、ある意味滑稽なまでのしきたりの厳しさに絶望し、精神を病んだと言われた程に仰々しいものだった。


 でも、たまに遊びに来て、美しいものだけを見てゲントへ帰ることができたマリーは、後継者の公女でもあったので、嫁いで来たシシィとは立場も違い、煩(わずら)わしい姑がいたわけでもなく、多少は気楽であったのかもしれない。それにフィリップ善良公が生きていた時は、マリーはまだ10歳前のほんの少女だったので、そこまで大変な儀式に参加することもなかったのだ。


 そういうわけで、マリーにとって、ブリュッセルの宮殿は自分が生まれた王宮、ということだけではなく、祖父との思い出がたくさん詰まった輝くほどに美しい王宮であった。


(注1)

 石や煉瓦でできた家というのは、夏は過ごしやすいのだが、冬の寒さは底冷えがする厳しさである。また、冬の殺風景で寒々とした城塞の中でタピストリーの役割は装飾品としても大変大きかったに違いない。持ち運びも可能で、屋敷や別荘や旅先へまで運搬でき、当時の王侯貴族にとっては防寒機能を備えた、尚且つ屋敷を華やかに彩る調度品でもあった。


(注2)

 ドゥカートとは(イタリア語: ducato、フランス語: ducat 、オランダ語: dukaat、ドイツ語: Dukat, Dukaten、英語: ducat )は、中世後期から20世紀の後半頃までヨーロッパで使用された硬貨のこと。




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主な参考文献。


「中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世」江村洋著  (ISBN 4-12-001561-0)

「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著    (ISBN 3-512-00636-1)

「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumont著   (ISBN 978-2-213-01197-4)


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