第四話

 しかし、この気の病を言い表した言葉は何だったか? 思い出せないまま延々と森を歩き続けること数刻、ついに木々がまばらになって足元の道がはっきりしてきた。森の縁に着いたのだ。あと少しで道の両側に立つ木々がなくなり、開けた大地と青空が素懐忠を迎える。そう思って安堵した瞬間、金四缼に向かって鋭いものが飛んできた。反射的に身を翻すと同時に肩のあたりを殺気が通り過ぎ、背後の木に小刀が音を立てて突き刺さる。

「先生!」

 素懐忠そかいちゅうが叫んだ。しかし振り返る間もなく左右から次の一手が襲ってくる。金四缼きんしけつは両の拳に針を四本ずつ挟み込むと、襲ってきた二人のツボに針を一本ずつ突き刺した。

「刺客か」

 苦々しく吐き捨てた金四缼に別の男が襲いかかる。揃いも揃って黒服・覆面で空手というあたり、組織だっての襲撃であることは間違いない。金四缼はその男にも針を刺し、刺された側は今まさに一撃を食らわせようという体勢のまま固まって微塵も体を動かせない。先に刺した二人から針を回収すると——一度経絡を刺激してしまえば、針を抜いてもしばらくは硬直したまま動けないのだ——金四缼は素懐忠を囲んでいる一団に向かって針を一斉に投げつけた。

 四本の針が四つのツボに突き刺さり、四人が身動きを封じられる。この隙に素懐忠に加勢しようとした金四缼はしかし、その必要がないらしいことを一目で悟って動きを止めた。

 この親にしてこの子ありとはこのためにある言葉だ、金四缼は背後を取った男に肘鉄を食らわせながらそう思った。数の上では圧倒的に不利だというのに、素懐忠はそれをものともせずに着実に敵の数を減らしていく。白く幅広の袖が弧を描き、細腕が敵を絡めとっては制圧していく、まさに柔よく剛を制す、そんな戦いぶりに金四缼は思わず見とれていた——のだが。

 ゴッ、と硬い音がして、金四缼は我に返った。見れば黒服が一人、鼻血を飛ばしながら見事な弧を描いて地面に沈んでいく。何事かと思えば、素懐忠が数珠を巻き付けた拳を縦横無尽に振るっているところだった。柔よく剛を制しつつも最後は拳でねじ伏せる、清らかで可憐な笑顔からはかけ離れた立ち回りに、金四缼は完全に戦いの手を止めた。ゴッ、ドスッ、ガッ、と痛そうな音を立てて黒服が次々と宙を飛ぶ。つまりこれが彼に無礼を働いた代償なのか、とこれまた的外れなことを考え出した脳を叱りつけ、金四缼は素懐忠に加勢した。ここまでくるともうやけくそだ。黒服が全員撤退するまで、金四缼は隣で四肢を柳のごとくしならせては敵を力で叩きのめす素懐忠の姿を意識せずにはいられなかった。目の前に飛び出してきた覆面に数珠がめり込むさまが実に鮮明に記憶された。



***



 こうして、見事刺客を撃退した素懐忠は父・素文真そぶんしんと合流すべく金四缼のもとを去っていった。しかし、森の中へと引き返した金四缼きんしけつの脳内を渦巻くのは相も変わらず素懐忠のことばかりだ。

 それに、金四缼は今になってようやく例の「言葉」を思い出した。

 そうだ。煩悩だ。百といくつかあるとかいう悩み事だ。正しい数はとうに忘れたがとにかくこれは煩悩だ、煩悩でなくて何なのだ。己の頭は煩悩だらけだ。それも全て、素懐忠一人に対する煩悩だ。素懐忠は数々の煩悩を絶つべく修練を積んだことがあるのだろうが、あいにく金四缼にはその経験は皆無だった。というか、煩悩の原因が仏教徒とはいったいどういう風の吹き回しなのだ。百といくつかの煩悩にさらにもう一塊百といくつかの煩悩が掛け合わされて巨大な一つの煩悩に化けてしまったような、そんな心地がした。金四缼は悶々としながら家の戸をくぐり、滅茶苦茶に酔っぱらうまで酒を傾けた。そしてついに机に突っ伏していびきをかき始めた。

 この後、目を覚ました彼にさらなる煩悩が襲いかかることを、金四缼はまだ知らない。

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煩悩一一六六四 故水小辰 @kotako

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