第三話

 正義の二字を重んじる者ならば、素文真そぶんしんの名を聞けば必ず畏敬の念を抱く。金四缼はもともと医者として武林の数々の争いにかかわっていた身だから、当然素文真——まさか彼が素懐忠そかいちゅう公子の父親だったとは!——とも関わりがあった。窮地を救われたことも何度かあるし、彼の傷を治したこともある。恩讐と陰謀が常に渦巻き、命ばかりが散りゆく武林に嫌気がさしたときには、彼だけに隠居することを伝えて一人この森に移り住んだ。それから十年、気が付けばかつての領導たる彼の息子とともに、もう一度彼のもとに行こうとしている。今起きているという争いのことも、その首謀者のことも全く知らずにいたが、素懐忠の話を聞く限り厄介なことになっているのは間違いなかった。現に彼の師匠だという僧侶の名を、金四缼も現役時代に聞いたことがある。そのことを素懐忠に言うと、

「そうでしたか。では、これもきっと何かの縁なのでしょう」

 とにこやかに笑って返された。曖昧に返事をした金四缼の胸の内の葛藤など、素懐忠は知る由もない。

 


***



 金四缼きんしけつは、森の出口まで案内するという約束で素懐忠とともに家を出た。単に武林の厄介ごとを避けていたいということもあるが、それ以上に、もし戦力になってくれと言われたらこの素公主……もとい素懐忠と常に顔を合わせる羽目になるのが嫌だったのだ。もちろん素懐忠が嫌いなわけではない。当たり前だ、親の七光では決してなく、気骨も礼儀も併せ持ち、武林の若頭たるにふさわしい風格を備えた好青年なのだから——問題は彼に対するこの好感が、ただの「好感」で片付くものなのかが自分でも分からないということだった。彼と言葉を交わすたびに、失礼なことを口走ってしまわないだろうか、今の一言が彼を傷つけてはいないだろうかと悩み、一喜一憂する自分がいる。言葉だけではない、今や金四缼は素懐忠に対して変な素振りを見せてはいないかと昼も夜も延々と頭を悩ませているのだ。このままおかしな考えを続ければ、今に昔の決まり文句が「金四缼、この世に欠くは二つのこと」になってしまう——いや、この思考の先にあるものは二つや四つどころではとても収まらない、千にも万にも重なる汚名だ。長年世話になった素文真そぶんしんへの礼儀ということもあればこそ、実際は己を見失って一線を越えれば必ず後悔する、自分で自分を地獄に送るより他に贖罪の道はないだろうという確信によって、金四缼はどうにか自己を保つことができていた。だからこそ、早く森を抜けて素懐忠を見送ってしまいたかった。


 十年も住んでいればどんな森でも庭同然だ。この森は特別馬鹿でかいということはなかったが、木々が入り組んでいて道に迷いやすい。素懐忠そかいちゅうを追っていたという連中が影すら見せないのは、出てきたところを狙っているか諦めたかのどちらかだろうと金四缼は踏んでいた。もしかすると素懐忠のように坂から落ちて伸びているのがどこかにいるのかもしれないが、こちらから助ける義理もない以上探しに行くだけ無駄というものだ。

 金四缼は、なるべく開けていて安定した道を選んで素懐忠をいざなった。元の白衣に身を包み、袖口から数珠を持った手を覗かせる素懐忠は、咲き誇る白蓮のごとき清廉な輝きを森中に振りまいているように見える。日除けの頭巾から溢れる白髪がこれまた美しく、時折端を持ち上げて前を確かめる様子がこれまた可憐だ。軽くたくし上げられた裾から覗く白い布靴——この無愛想な森には不釣り合いな清純そのものの靴!——が踏んだあとにポコポコ花が咲いたとしても、金四缼は何の疑問も抱かないだろう。今ここに仙鶴が舞い降りても、天から楽の音が降り注いでも、金四缼は何一つ疑わず目の前で起こる全てを受け入れるだろう。素懐忠なら、ただそこにいるだけで何かしらの奇跡を起こせても何ら不思議ではない。そう真顔で言い切れる自分の方がよっぽど変だというのを脇に置いたところで、金四缼は足元に張り出した木の根をまたいだ。

「気をつけろ」

 ……それにしても、何かもっと気の利いたことが言えないものだろうか。後ろを歩く素懐忠が木の根の上ををまたいで通るのを視界の端に捕らえながら、金四缼きんしけつは考えた。それにしても、己の言動全てに是非を問いたくなるという気の病にも似たこの状態は一体何なのか。そういえば、仏教には色々と思い悩むことについて言い表した用語があったのではなかったか? いくつかあるというそれを打ち消して無の境地に至るとかなんとか、そんな感じの話を大昔に聞いたことがあるような気がする。はて何と言ったか、金四缼はひたすら記憶をたどる一方で目の前に張り出した枝を無造作に押し退けて素懐忠のために道を空けた。このかんばせに傷でもつけようものなら、この金四缼、悔やんでも悔やみきれぬと心の内で呟く横を、素懐忠は一言礼を述べて何事もなく通り過ぎていく。通り過ぎざまにふわりと鼻腔をくすぐった白檀の残り香がまたなんともいじらしい——いつまでも嗅いでいたい、と不埒なことを考え出した己の脳を諫めるかのように、金四缼は押さえていた枝を乱暴に放した。ザン、と枝が鳴り、その拍子に葉に溜まっていた雫が一斉に跳ねて金四缼の顔を直撃する。

「金先生⁉」

 音に驚いたのか、素懐忠がこちらを振り向いた。金四缼は無骨な手で顔を拭いながら大丈夫だと呟いて、先に進めと素懐忠を促した。

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