第二話
念には念を入れて衣を洗い、しわひとつないように端から端まで徹底的に伸ばして干すなど、五十何年生きてきた中で未だかつてしたことがない。しかしこの
家に戻ると、素懐忠はまた床についていた。このみすぼらしい掘っ立て小屋がまるで彼を中心に照らされているような、そんな錯覚さえ覚えるような寝顔から必死で目を逸らし、
「起きろ、素懐忠」
金四缼が声をかけると、素懐忠は意外にもすぐに目を開けた。
「食事だ」
……畜生め。なんだってそんな不愛想な口の利き方しかできないんだ。金四缼、天下に欠くは四つのこと、一つは救えなかった命、一つは救わなかった命、一つは救わないことにした命、残る一つは救えた命と昔はよく言ったものだが、彼に対しては真心と愛想を欠いただけでこの四つでさえも遠く及ばないほどの非が生まれるような気分だ。だが素懐忠は気にならないのか、笑顔で礼を言うと申し訳なさそうに付け加えた。
「先生のご厚意は大変ありがたいのですが、私、生臭は食べないのです」
「野菜だけの炒め物もある。その……いつも必ず、野菜だけの一皿を作るのでな」
よくやった、金四缼。まさか彼が菜食主義だと言い出したときに備えて一皿別に作ったなどと、口が裂けても言えるものか。
「それはありがたい。ではお言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」
お邪魔だなんて、今この場に邪魔なのは俺の方だ。なんてこった、仏門の公子に俺なんかの料理を食わせるのか?
「口に合えばいいが」
素懐忠とともに食卓に着いて、金四缼は言った。本音だった。そして幸いなことに、素懐忠は特に顔色を変えるでもなく、始終にこやかに箸を口に運んでいた。畜生、大の男のくせして一口が小さい。その様子から自らの気を逸らさせるように、金四缼は酒をぐっとあおって口を開いた。
「ところで、素懐忠」
「何でしょう、金先生」
「何故この森に来た?」
あまり物騒な物言いはしまいとは思うものの、こればかりは問いたださなければならない。素懐忠は箸を持った手を止めて目線を泳がせた。
「それは……」
「安心しろ。現に俺は何も乱暴な真似はしちゃいないだろう。お前の持ち物は何も盗っていないし、食事にも何も盛っていない」
馬鹿野郎。こんなことを言う奴が何も企んでないわけがないだろうが!
だが、素懐忠は自分で自分を叱責する金四缼の心中など知る由もない。
「……そうですね」
と呟くと、素懐忠は懐から一冊の本を取り出した。それは脱がせた白衣の中から出てきた経典だった。素懐忠の目が俄然鋭くなる。
「先生。私の衣を替えたということは、この本もお目にかかったはずです」
「ああ。中は見とらんが」
「これは私が師尊から預かり受けたものです。父に保管させるよう仰せつかったのですが、その途中で襲撃されてしまい……」
「この森に逃げ込んで、あの坂から落ちたと」
「はい。闇と雨に乗じて追手を振り切ろうとしたのですが、まさかあれほど地面が緩んでいるとは思わなかったもので」
特に意外性はない、自分の見立てと変わらんなと
「その、お前の師尊とやらは何故お前に本を託したのだ」
「寺が襲撃されて。私は三年前に還俗するまで、その寺に預けられていました。襲撃を受けたとき、師尊は私に……この本を持って逃げろと言い、私はそのまま寺から追い出されました。師尊はそれきり……」
「すまん、悪いことを聞いた」
澄んだ瞳を潤ませる
「この書物さえ守り抜けば、師尊も他の皆の犠牲も報われましょう」
と言葉を続けた。
「今のところ、お前を追ってきたらしい連中は見ていない」
金四缼はそう言うと、再び酒をあおった。
「これからどうするつもりだ」
「寺が落ちた知らせは、もう父のもとにも届いているでしょう。一刻も早くこの本を届けないと」
なるほど骨のある若者だと金四缼は思った。悲しみに暮れて目的を見失うこともなく、目の前の戦いに集中している。
「……ちなみに、その父君というのは」
興味本位で尋ねた金四缼に返されたのは、思いもよらぬ答えだった。
「中原
………………嘘だろう。
金四缼の手から酒の壺が落ち、つま先を直撃した。
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