煩悩一一六六四

故水小辰

第一話

 不意に足元が滑り、金四缼きんしけつは手近にあった木をひっ掴んだ。

 一晩中降った雨のおかげで森じゅうの土が緩い。金四缼は目についた山菜を摘み取って背中のかごに放り込んだ。このぬかるみでは、下手に転べば捻挫は免れない。おまけに濡れた草木が散々にしずくを落とすせいで、せっかくの快晴だというのにこちらは雨の備えだ。心なしか陽気に反して空気も冷たいような気がする。早く戻って酒でも温めよう、そう思いながら背の高い茂みをかき分けた金四缼の目に飛び込んできたのは、一匹の鹿と地面に横たわる白い塊だった。


 塊の正体がうずくまっている人間だと気付くまでに、驚いた鹿がぬかるみを蹴って木々の間に逃げてしまった。木漏れ日をたっぷり浴びて輝く白い背中にべちゃりと泥が跳ねる。我に返った金四缼は急いで駆け寄ると、その隣に膝をついた。

「おい、大丈夫か」

 声をかけて軽く肩を揺さぶると、しとどに濡れそぼり、木漏れ日を受けてきらめく白髪がぱらりと落ちる。布越しに伝わる高めの体温に、金四缼はぐったりして反応を見せない体を仰向けに抱え上げた。

 その途端、金四缼は再び息を飲んで固まった。

 目を閉じ、軽く口を開けたその顔は雪のように白く、花のように可憐で、顔にかかる白髪をかき上げてやればまるで上質な絹糸の束を撫でているかのような感触がする。間近で見ると、純白というよりは金色の光を内に秘めているような印象を受けた。神々しく、しかし柔らかみのある頬は熱を帯びて赤く染まり、乾いた血と泥と擦り傷も相まって実に痛々しい。汚れた白衣にも血のにじんだ跡があり、細い手首を取って脈を見ると体内にまで傷を負っていることがすぐに分かった。あたりを見回すと、ちょうど目の前の斜面に何かが滑り落ちたような跡が残っている。あの雨の中、誰かに襲われて逃げる最中にこの坂を滑り落ち、そのまま誰に見つかるでもなく気を失っていたということか。それにしても一体どこの公主が、と訝しんだ金四缼だったが、今触れている体が存外筋肉質で、さらには本来公主と言われる人たちの持つ身体的特徴を何一つ持ち合わせていないことを即座に思い出した。すなわち、こいつは男だ。服を脱がすまでもなく、然るべき場所に然るべきモノが付いていることは察しがつく——それに、この鍛え方から察するに武芸の心得があるらしい。

 ううん、と腕の中で男公主が呻く。何事かと身構える金四缼の腕の中で、男公主はうっすら目を開けた。力なく金四缼を見上げた琥珀色の瞳にかかるこぼれるように長いまつ毛がなんとも庇護欲をそそってくる。男公主は何か言いたいのか、少しだけ口を開いたが、言葉を発する前に再び目を閉じた。金四缼は詰めていた息を吐き出すと、男公主を連れて川沿いの家へと帰ることにした。



***



 怪我に風邪という泣きっ面に蜂のような状態の男公主だったが、傷を洗って包帯を巻き、薬を飲ませるとすぐに回復の兆しを見せた。金四缼きんしけつはひとまず胸をなで下ろし、自分の用事に取りかかることにした。

 ところが、今のうちにと裏の川で洗濯を始めたはいいが、頭の中は男公主——もとい白衣の公子のことがぐるぐる渦巻いている。急を要する相手、それも同じ男であるとは言っても、眠っていることをいいことに何の断りもなく服を脱がせて治療を施すのはなんとなく気が引けて、金四缼は「失礼する」と一声呟いてから見慣れぬ紋様の帯を解いて順番に服を脱がせ始めた。緊急の時には男女の別など気にも留めずに治療を進める金四缼だったが、なぜかこの公子に対してだけはその手が遅々として進まず、まるで己が傷を見、触ることで彼が穢されてしまうのではないか、仙女のような彼にこんなに易々と触れることが許されるのかとひたすら迷っていた。最終的には自分に喝を入れ、無事に治療を終えたはいいものの、今度は手ずから包帯を巻いた裸体が頭から離れない。ほっそりと色白で、不思議なことに体毛の一本も見当たらない滑らかな肌。よく鍛えられた美しい筋肉がうっすらと描きだす輪郭は当然のごとく男のそれだ。決して薄くはない胸板に軽く割れた腹、そして腰骨から伸びる一対の筋は下履きの中へと消え、その線のたどり着く先には秘められた——


「……っおい、やめんか!」

 金四缼は思わず叫んだ。その拍子に洗っていた布が音を立てて裂ける。幸いそれは患者の身体を清めるのに使ったものだった。

 ため息をつき、破れた布を置いて次の布を手に取る。不思議な紋様で縁取りのされた厚手のそれは男公主が着ていた衣だ。血と泥で汚れた衣を水に浸し、石鹸をつけてひとつひとつ汚れを落としていく。すると、家の方から物音がした。

「すみません、お邪魔してしまって……」

 顔を上げた金四缼の視界にいたのは例の男公主だった。目を丸くする金四缼に、男公主は少々頼りない足取りで近づいてくる。

「あなたが、私を助けてくださったのですか?」

「ここは滑りやすい。あまり歩き回るな」

 金四缼はそう言うと、洗濯物を置いて男公主に歩み寄った。今の二言で、容姿に違わぬ育ちの公主——もとい公子だということが分かる。間に合わせに着せた自分の衣は彼には大きかったようで、折って上げた袖の先からようやく数珠を持った指先が覗いているといった有り様だ。たしかに、並んで立った彼は金四缼より頭ひとつ分ほど目線の位置が低かった。

「ありがとうございます。この素懐忠そかいちゅう、先生の御恩は絶対に忘れません。ええと……」

金四缼きんしけつ

「金四缼先生。もしや、四針神手ししんしんしゅの金四缼先生ですか?」

 名前を聞くなり目を見開いた素懐忠に、金四缼は無言で頷いた。四針神手か、懐かしい。十年も前に捨てた名を再び聞く日が来ようとは——それにしても綺麗な男だ。顔にとどまらず心の内まで純真さで満ちているとは。自分のようなくすんだ人間が向けられるにはもったいないほどの驚きと尊敬のまなざしを振り払うように、金四缼は洗濯を再開した。

「いかにも。俺が四針神手の金四缼だ。そしていかに俺が希代の医者だと言っても、そいつの言うことは聞くもんだぞ。また足を滑らせる前に、中に入って休んでいろ」

 思ったよりきつい口調になってしまったが、そうでもしないと自分の頭が何を考え始めるか分かったものではない。金四缼はひとまず己の無礼を見逃すことにした。素懐忠はいささか面食らったようにその場に立ちすくんでいたが、やがて合掌して一礼すると家の中に戻っていった。

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